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無常とあおいの臓器
海の中にいるみたいだと思った。六月の紫陽花が、雫を散らしながら見渡す限りに咲いている。中でも青がよく目立つ。濡れた花弁が一枚一枚、花吹雪みたいに揺れている。それがちょうど波の打ち寄せのような速度だから、やっぱりここは、海の中みたいだと友穂は思った。
*
朝の香り、としか形容しようのないものが、友穂は好きだった。新鮮で、おろしたてのようにさっぱりしており、これから何かが始まるような響きがある。物語のプロローグ、音楽のイントロのようにさわやかで、期待を持たせてくれて、全てがリセットされたみたいに思えるから、朝のことが好きだ。
毎朝七時には家を出て、ゆっくりと職場へ向かう。夜明け前に細糸を撒くように降ったらしい雨は、アスファルトの道、コンクリートの床を濡らして、いつもの路地がすこし彩度をあげて光っている。カラスがどこかで鳴く声が聴こえる。ずる賢い彼らに、隣のアパートの管理人が頭を悩ませているのを知っている。
安い物件を選んだせいで、友穂の家から駅までは歩きで十五分かかる。二十三区内ではあるものの、メインの路線からは少し離れた外れ地だった。土地を代々受け継いでいる家が多いのか、派手さはないけれど余裕はありそうな二世帯住宅をよく見かける。友穂の自宅はよくある新興的な分譲マンションで、1LDKを賃貸として借りている。
ちょっと不便すぎるんじゃない、と笑われたのは、一度や二度ではない。下町の雰囲気があって住みやすそうだけれど、面白いところではないし、なによりどこに行くにも三回ほど乗り換えしなくてはならない、アクセスの悪さ。これならちょっと遠くのメイン路線の駅近物件にしたほうがまだ便利、と田舎の母さえもがそう言った。たしかにちょっと、いやかなり不便ではあるけれど、でもその分安いし、友穂は自分がそう悪い選択をしたとも思っていなかった。
何よりこの紫陽花の道が格別なのだ。
六月以外に通ることは殆どないが、しかしこの青い小道は、梅雨の季節にだけいっとう美しくなる。葉や花弁についた雫は星々のように煌めいている。
ここを通ると少し遠回りになるのだけれど、それでも六月には毎日の通勤路に選んでいる。
*
初めて彼に出会ったのは、紫陽花がようやく三分咲きほどになった六月初旬の早朝だった。彼は背をまっすぐに、青い傘を手に紫陽花を見つめていた。その横顔がどうにも真面目で真摯だった。狭い小道なので、一応小さく会釈してから横を通り過ぎた。
次の日も、彼はそこにいた。同じく青い傘を手に、青い紫陽花を見つめている。服装はシャツにジーパンで、とりたてて特徴もない。年齢もよくわからないが、擦れていない感じがあるために、ひょっとしたら友穂よりも随分若い学生さんなのかもしれないとも思う。大人びて見える大学生だろうか。その日も黙って横を通り過ぎたが、一瞬だけ彼の顔を覗いてみた。人が前を通ろうとしていることなんて、少しも意に介していないかのような、まるで映画に見入る鑑賞者のような、不思議に虚ろな瞳だった。紫陽花が映るせいか、光彩は青く見えた。
次の日も、その次の日も、彼はその小道にいた。段々と顔見知りのような気持ちになってきて、初めて話しかけるまでにそう時間はかからなかった。やがて路を通るたびに簡単な会話をするようにもなった。彼は紫陽花のことに詳しかった。ものを聞くと、先生みたいによく教えてくれた。
「紫陽花の花って綺麗ですよね、なんだかここのは特に、色が強くって。土壌が関係しているんですっけ?」
「そうらしいですね。でも、これは花じゃあないんです。本体はこっち」
彼の指が、おもむろに花を掻き分けていく。がさごそ、がさごそ。その濁った擦れ音が、まるで自分の心臓の中でしているような気がしてなんだかそわそわしてしまう。波が割れるみたいに紫陽花がどけられて、奥には触角を集めて花束にしたかのような雄蘂と雌蘂とが現れた。
――これが、本当の花なのか。
友穂は暫く、彼が無言で示すその蘂たちを見つめていた。そこには臓器があった。花は植物だと思っていたのに、こんなものがあるなんて不思議だ。同時にすこしだけ恐ろしくなってもしまった。
やがて彼は、まるで宝物を隠すかのようにそっと蘂たちを隠した。
「とっても綺麗でしょう?」
「綺麗ですけど、あれが花じゃなかったんだなあと思うと、なんだか切なくて」
苦笑いすると、彼は驚いたように顔を傾けた。そうかなあ、とでも言いたげだ。友穂は言い訳するみたいに言葉を重ねる。
「花だと思っていたのに、ほんとうはそうじゃなかった、というのが切なくて」
「ほんとうなんて関係ないですよ、君がどう見るかということです」
なんだか哲学的ですね、と返事をして笑う。その日はそれだけで終わった。「またね」とありきたりな挨拶をしたところ、彼は、紫陽花が咲いている間はずっとここにいるから、と不思議な返事をしながら笑った。
それからも毎日彼と会った。長い会話をすることもあれば、挨拶だけして通り過ぎることもある。そうしているうちに紫陽花は順調に満開をむかえ、やがて少しずつ萎み始めていた。晴れの日も多くなってきて、梅雨明けももうすぐですとお天気キャスターが笑っている。その日は傘を持たずに出かけた。梅雨明けが待ち遠しかったけれど、紫陽花の見頃が終わるのは寂しかった。
「もう見頃も終わりですね」
「そうですね。ぼくはこのぐらいの淡い色も好きですが」
この頃、彼はたまに友穂の瞳を見てくれるようになっていた。白皙の顔がまっすぐ友穂を見ている。
「この間、私がどう見るかだ、と仰っていましたね」
「ええ、言いました」
「もっと詳しい意味をお伺いしてもいいですか?」
「どうして? 見頃が終わりだから?」
彼が笑う。その微笑みがどうも人間らしくないのだ。彼は紫陽花の精霊か何かのような気がする。どうにも肉を食べたり眠ったりするところが想像できない。彼が喋る。どうして声が出せるのだろう、と思うほどに平面な身体で。
「たとえばですが。自分が自分だとか、花が植物であって中に水が通っていることとか、逆に人間には赤い血が流れててその中央に心臓があることとか。本当に見たわけでもないでしょう、そういうふうに思い込んでいるだけなのかもしれないけれど、それでもいい、ということ」
でもこの続きはね、と彼が笑う。
「お伝えしませんよ。だって、人間のなかに花が咲いていることとか、花のなかに臓器があることとか、とっても気持ち悪いでしょう」
何かの謎かけのようだ、と思った。シャツ一枚しか羽織られていない彼のお腹を見ていた。でも見てはいけない気がして、それでは、と会釈してそのまま別れた。それが彼を見た最後になった。
次の日の朝、紫陽花はとうとう枯れていた。花のように見える何かは、灰色、茶色、くすんだ色のまま残っていて、これはこれで、こういう紫陽花も綺麗だ、と友穂は思う。とても穏やかに死んでいく生きもの。いや、これはただ花でも何でもないものの色が褪せているだけで、紫陽花は決して死んではいないのだ。もちろんそうなのだろうし、でも、褪せてが思う限りはやっぱりこれは『死』なのかもしれない。
「人間のなかに花が咲いていることとか、花のなかに臓器があることとか、とっても気持ち悪いでしょう」
そんなことないよと言いたかった。でも想像するとグロテスクな気がしてやっぱり苦笑してしまう。あなたの身体のなかはどうなっているんだろう、と考えた。あなたが花の精霊ならとても似合うと思うのに、あなたのお腹に腸の代わりに蔦が巡っていたとしたら、どうしてかとても気持ち悪い。それでもこうして見ている人型のあなたがとても美しいから、来年も、六月の間はあなたの中身を忘れていたい。
<了>
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