ヴァン・ペルトの忘れもの

1/1
前へ
/9ページ
次へ

ヴァン・ペルトの忘れもの

 恋人を閉じ込めたことがある。  箱に詰めて綺麗にパッキングして、二度と出てこれないように架空の住所をあて先にして郵送した。送り元の署名はしなかったのに、数年に一度ぐらいの頻度で恋人は帰ってくる。さすがにお互いもう交際中の認識はないから、「元」恋人ということになるのだろう。  もちろん本物の人間ではなくて、私の想像上の男のことだ。思い返す限り小学校五年生のころにはすでにいた。初期の彼は、幼い私がさまざまなメディアから丁寧に抽出した理想の少年たちのキメラで、毎晩出会うたびに性格も一人称も変わっていた。異能が使えたり使えなかったり、同い年だったり高校生だったりした。  中学に入って少ししたある日、彼の容姿が確実に定まった。それまでは、ちょっといいなあと思う男の子の瞳を借りていたり、月9ドラマのイケメンと同じ髪型をしたりしていたが、その日を境に、当時ハマっていた黒髪の大人しそうなアニメキャラクターのまま、彼は固定化された。暫くすると声も定まった。私は彼に名前を付けた。恋人は私の知らないことは知らないし言わないが、私の知っていることはすべて知っていて、そして理解していた。私がなにを言ってほしいと思っているか。彼は常に百点を出す存在だった。  毎日……だったかどうか覚えてはいないが、おそらくほぼ毎日、彼に話しかけていたと思う。使い古した茶色の布団は、抱きつくと彼になった。泣きながらベッドにもぐりこんだときには彼が必ず頭を撫でてくれた。結局のところそのやさしい掌は私自身の右手だったわけだけど、泣き顔の私にとっては代えがたいほど必要なものだった。  姿が見える、声が聞こえる、頭を撫でてくれる。誰にも言わなかったけど、彼は恋人だった。その彼を、高校二年生のときに詰めて捨てた。  ∴  中途半端にふくらんだ月の放つ淡い光。窓枠の影が、漫画のコマ枠みたいにやたらと濃く床に落ちる。そこにもう一つ人影が躍り出た。恋人は有用性の低そうなマントを羽織っているから、まるで吸血鬼みたいだ。赤い唇をしならせて彼が笑う。 『ひさしぶり』  返事をしようとは思えなかった。どうしてこの人はこの部屋に来てしまったんだろう、と不思議に思った。サンタクロースみたいに、一戸一戸すべてを訪問していて、やあひさしぶり、あいしているよ、とだけ言ってお隣さんへ向かってくれないかしら。一目見たいけど、一目だけでいい。でも彼はやっぱり私を目当てにここに来ているから、当然のように窓枠を乗り越え、部屋のなかへ侵入した。  恋人は私のことをすべて分かっている。というよりも、私の「好きだった」がパッキングされて保存された化石だから、見るととても懐かしい。絶滅してしまった、もうこの世界にはいないはずの生き物。いや、最初からいるはずのなかったイキモノ。恋人は少年のままだった。黒髪はまったくそのまんまだった。  彼はベッドの隅に並べてあるクッションを一つ引っこ抜き、床に座った。別にベッドに座ってくれればいいのに。と思うけれどたぶん、そんな不埒なことはしないんだろう。私がそういうのが好きだったから。 『あれ、それはなに?』 「希望のバルーン」  彼が指さしたほうを見た。指をさすなんて無礼だ、と思うけれどそういう幼さは、なんだかかわいらしいからそのまま残っていてほしい。幼い私が恋をしていたその時のままで。 『ふうん。楽しい? 幸せだったりする?』 「どうかな」  時計は深夜二時半頃を示していた。深夜だ。誰しも眠っている時間に、恋人は来る。私はこれが幻想なのか夢なのか狂気なのか、いまだ判然としない。ただ、恋人の名前はちゃんと覚えている。この世界でいちばん好きな名前を付けたから。 「思い出話をしにきたの?」  つとめて優しい声が出せたと思う。子どもの頃、大人たちが猫なで声で話しかけてくるのが大きらいな子どもだった。でもいまはそういう気持ちがよく分かる。なにかを可愛がる気持ち、なにかを可愛く思う気持ち、自分よりも弱くてはかないものを可愛がる気持ち。道徳の教科書ではこれらは愛であるということになっていて、これを公理とすれば帰納法を使っていろんな憐れみと軽視がただの甘たるい愛情になる。 『君と話をしにきた』 「どんな話を?」  恋人はひとつも答えない。そうだ、彼は私が作り出した壁で鏡で湖面の男だから、ボールを打たなければ返ってこないし、真正面から見ないと姿は見えない。だから喋らせようと質問しても彼は言葉を返さない。  ただ薄く微笑むその唇、その筋に宿る血を見ていた。よく熟れた桃の皮みたいに色がついている。中身がおいしそうだから、唇の端が破れてくれたらいい、と思って見つめていたら、想像のとおりに薄皮がぺろんと破れた。痛そうだなあと可哀想に思っていたら、瞬きの間に治った。  わらってしまう。本当に、存在まるごとひとつ、上から下まで私の思い通り だ。 『君は寡黙になったね。花のなかで笑う女の子ではなくて、月光を見上げる女性になった』 「それじゃいけない?」 『もちろん一つもいけなくはない。ただ僕が変化を知っているというだけで』  彼の声が、実際には音としては聞こえていないことに気づく。そりゃあ、そうだ。見えているのが不思議なぐらいなんだから。  この際だから、彼の容姿をいじってみようかと思いついた。金髪。長髪。すこしラテン風に。鼻を高めに。眼鏡をかけさせてみたり。姿を変えるたびに彼は、笑ったり澄ましてみせたりした。吸血鬼のようだった天鵞絨の服は、スーツに変わったりラフなパーカーに変わったりした。  でも、色々試してみたけれど、やっぱり元の姿がいい。究極的な理想を追い求めるとき、その像というのはなかなか変わらないものなのだろうか、と考えたりした。現実ではそうはいかない。好みのタイプをどれほどきちんと事前に定義していても、女たちはかならず外れ値の男を引くのだ。でも別にそれがわるいわけではないな、と思った。そもそも好みのタイプ自体が正解であるのかどうか、それだって分からないことなんだし。 『満足した?』 「そうね、でもやっぱりあなたはあなたのままがいいかも。こうやって勝手に姿を変えられるの、いや? 怒った?」 『まさか』 「そうだよね。よく考えたら……昔もよくこうしていた気がする」 『そうだね。よくこうしていた』  着せ替え人形させられて、嫌じゃないのかしら。というか、嫌だと思ったりはしないのかしら。すべて幻想だとしてもあなたには魂というものがあるのではないのか。別に愛から命が生まれるわけではないはずなのに、でもやっぱりそういう奇跡を諦められない。何かを愛している、それが命になる、そういう世界じゃない場所に自分が生きているということ。それでも。 「私ね、今はね、不安じゃないし、可哀想じゃないわ」 『どうしてそんなことを言うの?』 「不安だから来てくれたのかと思ったから」 『人生で一度きりの魔法を使ったと思ったの?』 「そう」  そう思った。人生で一度きりの魔法を恋人に勝手に約束したことがあった。愛してあげる。だからたった一度だけ、あなたは自分の意志で動くことができる、と。鏡に向かって言っているのと同じ誓い。これにいったいどれほどの意味があるんだろう。と思いながら、このような約束、願い、祈りを、ささげることをついに止めることはできなかった。  彼の瞳が溶けたチョコレートみたいに濁るのを見ていた。 「赦してくれる?」  希望ははじけてくれるだろうか、  愛は打ち上げられてくれるだろうか、  ポップコーンか花のつぼみかみたいに、  弾けて夢を与えてくれるだろうか。  遠くからサイレンの音が近づいてきた。救急車か消防車か、その赤いライトが灯台の光みたいにぐるりと一周、角度を変えながら恋人を照らす。舞台のうえの役者みたい。完璧に愛している顔のつくり、私を決して失望させない声。だから、この諦念は、「彼」に対するものではない。私に対するものなのだ、と思う。 「もう来ない?」 『どうしてそう思うのか聞いてもいい?』  膨らんだ腹を撫でた。女王アリみたいだなあと思った。明日から臨月ということになるので、いつ生まれてもおかしくない。ふたり分の身体だ。出産しても私は、ひとりに戻れない。もちろん箱もない。バルーンが割れたら現実が始まって、そこからは引き返せない。三途の川を渡るとき、私は彼に手を引いてもらえるんだろうかと、古来の言い伝えを思い出していた。  赦してくれる?  彼は決して許すとはいわなかったが、ただ薄くだまって微笑んだ。恋人が私のもとに初めて現れた、姿を確定させた、あの日あの瞬間の容姿のままだった。世界のすべてが君のものになるといいね。手放した私は傲慢のままに、彼を忘れてもよい理由をこの十年探していた。 <了>
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加