序章 雲鶴

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序章 雲鶴

 朱い、朱い、朱い――  目に映るすべてが、朱かった。まるで炎のような、夕陽だ。  夕暮時に差し掛かる今、すべての空は朱に塗り替えられていた。俺の頭上も、伸ばした指先も、足元も、そこに映る空のすべてが朱い。  何かに縋ろうとしても、何もない。立ち上がろうと思っても、そもそも地に足が着いていない。全身をじたばたさせてもがいても、返ってくるのはふわふわとして心許ない感覚。  間違いない、この感覚――落ちてる! 「ああああああああぁぁぁっ!」  否定できないくらいに実感してしまうと、叫ぶことを止められない。  怖い怖い怖い――!  よく高い所から飛び降りたら、ゆっくり落ちているように感じると聞くが、全然違うじゃないか。耳元では風を切る轟音が鳴り止まない。着ている服がバタバタと大きく風になびいてる。全身に当たる風が寒いを通り越して痛い。  そして何より、これだけ早く落ちているというのに、地面に落着する気配がまるでない。まだまだ、落ち続ける。  いつになったら地面が見えるんだ。いやいや、地面が見えたら間違いなく死ぬ。  地面なんて見えなくていい。それよりも―― 「誰か、止めてくれーっ!」  誰もいるはずのない宙に叫ぶ。だが、誰にも聞こえるはずもない。  叫んだと言っても、空気の圧が強すぎて、そして恐怖で、大きな声などとても出せない。それ以上に、今この空にいるのは自分一人。雲すらない、地上も視界に入らないような上空に叫んだところでいったい誰が聞いてくれようか。  わかっている。わかってはいるが、それと何もしないこととは、別だ。  ほとんど本能に近い衝動で、どこにも触れられない手足をバタバタと動かし続けた。見えない何かに縋れるかもしれないと、虚空に手を伸ばした。  すると――何かが、俺の耳に届いた。 「手を――」  俺ではない、誰かの声。 「手を伸ばして!」  聞き間違いじゃない。人の声が聞こえた。  俺は反射的にその声の方へ向けて手を伸ばした。何かが、誰かがその手を取ってくれると信じて。  伸ばした手の先に、何かが見えた。俺よりも少し上空に浮かぶ、真っ赤な夕陽を背負った、小さな影が。影は、俺が落ちる速度よりも速く落ち、ぐんぐんと近づいてくる。  近づくにつれ、その姿が露わになる。  夕陽を照らして艶めく黒髪をなびかせた、女性だ。真っ黒な髪に反してその肌は雪のように白い。そして、黒い髪と白い肌、どちらもが映えるような紅の着物を纏っている。  不思議だ。さっきまで自分が高速で落ち続けているように感じていたのに、あの姿が見えた途端、すべてが止まったように見える。それぐらい、彼女の姿しか目に入らない。  危機的状況も何もかも頭から抜けて、頭に浮かんだのはただ一言―― 「綺麗だ――」
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