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なんて納得できるわけがない――!
嫌なことだらけの日々ではあったが、さすがに死にたくはない。大ケガも嫌だが死ぬよりはマシだ。
屋上から落ちて生き残れるのか――って、あれ? 地面て、こんなに遠いのか?
さっきからすごいスピードで落ちてるのに、一向に地面が見えない。
というか、校舎から落ちたのに、校舎もグラウンドも、周辺の風景すら何も見えない。見えるのは、一面の茜空。
俺は、屋上から落ちているんじゃないのか……?
この雲一つない光景……これはもしや、屋上よりもずっと高い高い上空から落ちているんじゃないのか……!?
そんなの、そんなの……絶対ダメなやつじゃないか! 何でそんなことになってるのかとかどうでもいい! どうやったら助かるんだ!
死にたくない死にたくない死にたくない!!
「誰か、止めてくれーっ!」
「手を伸ばして!」
俺の叫びに応えるように、声が聞こえた。
声の主は、俺より上空から一直線に落ちてくる。俺目掛けて飛んでいるように。
その人は、夕陽を浴びて赤く艶めく髪をなびかせ、そして夕陽と同じくらい鮮やかな朱の衣を身に纏った、女性――。
俺は、吸い寄せられるように手を伸ばした。すると、彼女の手が俺の手をしっかりと掴んだ。そして、するりと何かを呟いた。
「雲鶴」
紡ぎだした言葉は、風に流されていった。そして、彼女の言葉を孕んだ風が大きく大きく渦を巻き、やがて一つの形を生み出した。
流れる雲を纏った、真っ白くしなやかな鶴の姿を。
――雲鶴
その言葉がぴったりと当てはまる存在が、彼女の言葉によって現れた。
「な、何が起こって……?」
俺が誰にともなく呟く間に、鶴はふわりと空中を舞い、俺と彼女の体を拾い上げた。茜色の空の中に、大きくて真っ白な鶴が一羽、それまでのことが嘘のように優雅に舞っているのだ。
その背に乗る俺は、何が起ったのかさっぱり理解できずにいた。
「怪我はありませんか?」
茫然とする俺の耳に、鈴のような声が聞こえてきた。子の声は……さっき俺の手をとってくれた女性の声と同じだ。
視線を動かすと、その人は、腰が抜けてへたり込む俺とは違って、ぴんと背筋を伸ばして凛と佇んでいた。間近で見ると、さっき見た以上に真っ白できれいな肌だった。あれだけの強風に煽られたというのに、長い髪は殆ど乱れておらず、しっとりとしてつややかだ。そして、その身には艶やかな着物を纏っていた。
朱の地に、3種類の文様が描かれている。束ね熨斗、扇流し、そして雲鶴。普通は一枚の着物に3種全部描くなんてことはしない。なんだか継ぎ接ぎのようでおかしな出で立ちなのだが彼女が身に着けていると、その全てが、不思議と彼女の美しさを引き立てる装飾品であるように見える。
さっきまで感じていた死の恐怖と相まって、俺は完全に言葉を失った。
何も応えられずに歯をカタカタ鳴らす情けない俺を見て、彼女はふわりと微笑んだ。そこには嘲りといったものはなく、恐怖に理解を示すかのような、子供をなだめるような慈愛を感じた。
同じように、右手に何やら温もりを感じた。そこで気付いた。俺は彼女が掴んでくれた手をしっかり握り返していた。あの時はこの空の中において、唯一縋れるものだったから死に物狂いで掴んだのはわかるが……今はもう違う。放さなければと思うのに、うまく手が動かない。
「す、す、すみませ……あれ? ち、力が……」
「かまいません。恐ろしかったでしょう」
そう言うと、彼女はそっともう片方の手で俺の手を包み込んだ。震えを止めるように優しく撫でてくれる。
「もう、大丈夫。安心して、おいでなさい」
「おいで……ど、どこへ?」
俺が問うとほぼ同時に、俺たちを乗せた鶴がふわりと高く舞い上がった。すると、それまで点のように見えていたものが大きな影として見え始めた。そして、徐々にその輪郭を露わにしていった。
露わになったその姿は、船。
大きな帆を掲げた巨大な船が、空に浮かぶ姿だった――!
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