第二章

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「……神無」  今まで黙っていた緋月がようやく口を開いた。神無に全身の産毛が逆立つような衝撃が走る。驚いて、首が折れそうなほど素早く緋月の方を向いた。 「助けてあげたのにお礼もないの?」  緋月はにこにこと笑っている。言葉も優しい。しかし神無には、それらが得体の知れない恐怖を誘うものでしかなかった。 「なんで、人間に、呪縛の力が……」  神無は震えと汗が止まらず、次第に警戒心を見せた。逃げたくても体がうまく動かない。力を振り絞れば抗えるだろうが、恐怖がそれを邪魔する。  名前を呼ばれただけで、体が言うことを聞かない。こんなことは生まれて初めてだ。左胸からする音が、うるさい。 「誰?」  蚊の鳴くような声で神無は尋ねた。笠の下で緋月は口の端を上げて笑う。暗い路地裏と相俟って顔の影が濃くなり、さらに恐ろしく見えた。 「笠を被っていたら気づかないか。ああ、あと鬘も。まあ、鬘は取らなくても分かるよね」  緋月は笠を取った。黒髪の鬘がさらりと音をたてる。神無の表情が変わった。 「緋那さま……? 違う…………あなたは……?」 「やっぱり分からないんだ」  緋月はにこにこと笑う。 「俺の名前、思い出せないでしょ?」 「……誰? あの方によく似ているけど」 「教えない」 「なにしているんですか、緋月さん」  信武が口にした名前に、神無は目を限界まで見開く。なにかが脳裏に流れ込んでいるかのように動けず、声にならない声を口にした。 「緋月、さま……」 「あーあ。口止め、しておくべきだったかな」  緋月は楽しそうに笑う。信武は意味が分からず、二人を交互に見つめた。 「緋月さま、生きて……おられて…………」 「俺があそこで死ぬわけないでしょ」 「緋月さま!」  神無は緋月に抱きつく。 「緋月さま……緋月さま!」  何度も名を呼ぶ神無の背中を、優しく叩いた。緋月は信武の方を見た。 「ここだと場所が悪いから、宿屋まで行こうか」  そうして、三人は宿屋へと行くことになった。
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