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今でもずっと忘れられない、短いけど濃かった小五のあの帰り道。
ピアノ教室の帰り道、たまたま宏人くんと同じになった。教室で一番うまいと言われている宏人くん。同い年なのにずっと大人っぽくて、襟のあるシャツが嫌味にならない宏人くん。
宏人くんは発表会のときに見かけるくらいで、ちゃんと話したことはない。あまり笑わなくて、難しい曲をたくさん弾く人。あと、ちょっとこわそう。そういうイメージだった。
何か話さなきゃ、と思ってこんな質問をした。
「ねえ、宏人くんが一番好きなピアノ曲って何?」
宏人くんはこちらの顔を見て、少し首を傾げた。
「それは、弾くほう?それとも、聴くほう?」
「…じゃあ、弾くほう」
悩むと思ったけれど、宏人くんは即答だった。
「愛のあいさつ」
愛のあいさつ。しっとりとした優しいメロディーが特徴的な、落ち着いた曲だ。ピアノ独奏の他にも、様々なアレンジがあったはず。
「ちょっと意外かも」
「ん、もっと暗い曲のイメージだった?」
「…うん」
図星をつかれ、思わず縮こまってしまう。そんな私の様子を見て、宏人くんがクスクスと笑った。
笑ってくれた、と緊張が解ける。
「おれが普段弾いてるのが、暗めの曲多いしなあ。仕方ないかも」
「愛のあいさつって、エルガー?だっけ?」
エルガーは、イギリスの作曲家だ。威風堂々が一番有名かもしれない。
威風堂々は、いかにも行進曲!って感じの勇ましい、まさに堂々とした曲だ。愛のあいさつとは全然雰囲気が違う。
「そう、エルガー。愛のあいさつは、エルガーが婚約者アリスに贈った曲なんだ」
「え、そうなの?」
婚約者から曲のプレゼント。ロマンチックだ。
「いいね、ステキだなあ」
「二人の結婚は、いろいろあったんだ。年齢差とか、身分の差とか、宗教の違いとか。元々アリスは、エルガーの生徒だったし。反対されたみたいだよ」
「うわあ。大変だね」
今の私にとっての恋愛なんて、クラスの誰が誰を好きだとか、少女漫画だとか、もっと軽いものだ。エルガーとアリスはスケールが全く違う。大変そうだけど、ちょっとだけ憧れる。
そういえば、弾くのだけじゃなくて聴くのもこの曲が一番好きかも、と宏人くんが呟く。
「…おれがこの曲好きなのって、なんだろう。優しい気持ちになれるからかな。弾いてるときも、聴いてる時も」
宏人くんは、そう言って笑顔を見せた。柔らかい、優しい笑顔だ。
本当にこの曲が好きなんだなと、見ているこっちも嬉しくなる。
「ねえ、宏人くんが弾く愛のあいさつ、聴いてみたい」
「だめ」
笑顔のまま、バッサリ切られた。
「ひどい!いいじゃん!」
「それでもだめ」
今度は、少し意地の悪い笑顔でにやにや笑っている。もしかして、とあることを思いついた。
「いつか婚約したら、その人だけのために弾くつもり?」
宏人くんは一気に顔を赤くした。喋らなくても、動揺していることが伝わる。
「うわ、話すんじゃなかった…」
恥ずかしがりながら、しょんぼり肩を落としている。
今日、話してわかった。宏人くんは全然こわい人じゃないし、色んな表情を見せてくれる人だ。
「 ロマンチストなんだね」
そう言うと、宏人くんはさらに顔を赤くさせた。
当時の自分には、「じゃあ私が婚約者になったら弾いてくれる?」と答える機転は無かった。まあ、もし思いついたとしても言わなかったかな。
宏人くんは、もう誰かにあの曲を弾いたのだろうか。
結局あれ以来中々会わず、きちんと話せたのはあの帰り道の一度きり。薬指の婚約指輪をぼんやりと見つめた。
明日、私は私が一番好きな人と結婚する。
目を閉じると、あの優しいメロディーが口から自然にこぼれた。
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