1人が本棚に入れています
本棚に追加
孟子に、靴職人の話がある。
人の足の大きさが、人によって100センチも異なる、ということはない。
だいたい、みんな同じような大きさだから、靴職人は、そういう靴だけ作っていればよろしい。
当たり前といえば当たり前。
だけどこれは小説家にも言えることではないだろうか。
小説に、行き詰まるとき、人は「赤い部屋」に閉じ込められている、と言うことができると思う。
それはどういうことかと言うと、ある人が、「赤」が嫌いになって、いつも避けていた。
その人が「赤い部屋」に閉じ込められたとき、気が狂ってしまうほかないではないか。
「赤い部屋」に 自分がいることを認められないで、その人は、
「自分は今青い部屋にいる」
と言いだしかねない。
小説も同じで、昔決めた信念のようなもので、がんじがらめになって、その結果、次の一行で書くことがなくなってしまう、ということが考えられる。
それで無理に書いたら、
「自分は今青い部屋にいる」
と言っているのと同じで、小説とは呼べないものになってしまう。
頭のいい人が陥りやすい。
では、「赤い部屋」に閉じ込められた人間が、先に進むためにはどうすればいいか?
それは、「赤が無理な自分」を、一旦かっこに入れてしまうのである。
赤が無理なのはいいけれど、この期に及んで、そんなことを言っている場合ではない。
いったん冷静になって、「今、ここ」で、どうすればいいのかを考えて、実行するよりない。
それが人間にはできる。
ここで、最初の靴職人の話に戻る。
人には、それぞれの「赤い部屋」があるはずだ。
赤が嫌い。
雨が嫌い。
三人称小説が嫌い。
結婚が嫌い。
なんでもありである。
人は誰だって、それぞれ何かが嫌いだ。
そんな中で、それぞれが自分の描きたいことを書いた場合、別に「赤」が嫌いでもない人に、「赤い部屋」からの脱出劇のような作品を読ませることになって、まったく理解されない、ということがあるのではないか?
たしかに、一見そういうことがあってもおかしくないように思える。
だけどこれは人の足の形で言えば、「大きさはどれもだいたい同じ」で、その代わり、人によってはでこぼこしていたり、ちょっぴり歪んでいたりするようなものだ。
なのでそれは大したことではない。
だから靴職人は、いつも通り靴を作っていればいいのだし、小説家はいつも通り小説を書いていればいい。
最初のコメントを投稿しよう!