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 孟子に、靴職人の話がある。  人の足の大きさが、人によって100センチも異なる、ということはない。  だいたい、みんな同じような大きさだから、靴職人は、そういう靴だけ作っていればよろしい。  当たり前といえば当たり前。  だけどこれは小説家にも言えることではないだろうか。    小説に、行き詰まるとき、人は「赤い部屋」に閉じ込められている、と言うことができると思う。  それはどういうことかと言うと、ある人が、「赤」が嫌いになって、いつも避けていた。  その人が「赤い部屋」に閉じ込められたとき、気が狂ってしまうほかないではないか。  「赤い部屋」に 自分がいることを認められないで、その人は、 「自分は今青い部屋にいる」  と言いだしかねない。  小説も同じで、昔決めた信念のようなもので、がんじがらめになって、その結果、次の一行で書くことがなくなってしまう、ということが考えられる。  それで無理に書いたら、 「自分は今青い部屋にいる」  と言っているのと同じで、小説とは呼べないものになってしまう。  頭のいい人が陥りやすい。    では、「赤い部屋」に閉じ込められた人間が、先に進むためにはどうすればいいか?  それは、「赤が無理な自分」を、一旦かっこに入れてしまうのである。  赤が無理なのはいいけれど、この期に及んで、そんなことを言っている場合ではない。  いったん冷静になって、「今、ここ」で、どうすればいいのかを考えて、実行するよりない。  それが人間にはできる。    ここで、最初の靴職人の話に戻る。  人には、それぞれの「赤い部屋」があるはずだ。  赤が嫌い。  雨が嫌い。  三人称小説が嫌い。  結婚が嫌い。  なんでもありである。  人は誰だって、それぞれ何かが嫌いだ。    そんな中で、それぞれが自分の描きたいことを書いた場合、別に「赤」が嫌いでもない人に、「赤い部屋」からの脱出劇のような作品を読ませることになって、まったく理解されない、ということがあるのではないか?  たしかに、一見そういうことがあってもおかしくないように思える。  だけどこれは人の足の形で言えば、「大きさはどれもだいたい同じ」で、その代わり、人によってはでこぼこしていたり、ちょっぴり歪んでいたりするようなものだ。  なのでそれは大したことではない。     だから靴職人は、いつも通り靴を作っていればいいのだし、小説家はいつも通り小説を書いていればいい。
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