めでたし めでたしのその後で

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とりあえず、ケイ殿の今の状況から話そう。 その前に異世界とは何かから話さないとな。 異世界とは、この和菓子屋月猫の庭のように、人間社会とちょっとズレた世界から、ケイ殿が転生先のような世界まである。 で、時折、その異世界に迷い込んでしまう人間がいる。ケイ殿は昔話で、ちょっとズレた世界に行って帰ってきた話を聞いたことがあると思う。異世界に行くことは、多少波瀾はあるものの、人間社会に戻ることが原則になっている。 そんな昔話の中には、異世界に行ったものの、戻れなくなってしまう結末がある。その多くは、語り手、それも複数だが、経験したり、小耳に挟んだ後悔や無念が大元になっているものだが。 ……話が逸れた。本題に戻ろう。 近年、人間社会で命を落とした者が、異世界へ転生するという形で、異世界に迷い込む者が多くなっている。そういった者は人間社会で何らかの絶望を抱いていたのだそうだが、ケイ殿はどうであったか? ……そうか、やはり先の見えない不安に陥ってしまったのか。 そして、ケイ殿は転生先でも、再び先の見えない不安に陥っていた。でなければ、ケイ殿がこの和菓子屋月猫に来ることはないからな。 ケイ殿の今の状況を例えるならば…… ああ、唯、淹れ立てのコーヒーを持ってきてくれたか。よし、これで例えるとしよう。 まず、コーヒーカップに注がれたばかりのコーヒーが異世界として、転生者は砂糖やクリームだ。砂糖だと見た目、つまり異世界そのものの色を変えないが、甘く飲みやすくなる。異世界にない知識を広め、その世界を住みやすく変えていく。クリームだと、色も味も変えてしまう。だが、そのままだと色も味も斑になってしまう。 色も味も同じようになるように混ぜるものがティースプーンだ。……そうだ、ケイ殿は異世界で、このティースプーンの役割を果たしたのだ。 では、コーヒーを混ぜたその後、ティースプーンはどうする? ケイ殿、君は運がいい。己の意志で、その後を選べるのだから。 この和菓子屋月猫は、人間社会、その人間社会とちょっとズレた世界、ケイ殿が転生した先の世界、それからまったく別の異世界に通じている。自由に行き先を選ぶがいい。その選択を選ぶまで、和菓子屋月猫を自由に使うがいい。ただ、ケイ殿の肉体は、人間社会に既にないことを忘れずにな。 大猫は私にそう語り、コーヒーを飲み干すと、長い長い廊下へとその姿を消した。 どのくらい大猫が使っていたスプーンを手に見つめていたのだろう。何時しか空は夕暮れに差し掛かり、長い廊下に灯りが次々と点りだした。 「そろそろ中へ」 唯が声をかけてきて、私はそれに従った。長い廊下を抜けると、和菓子屋の店頭ではなく、居間に案内された。 「風呂場に着替えの服を用意してありますのでどうぞお使いになってください」 「ありがとう。ところで君は、異世界転生者なのか?」 「あたしはただの人間よ。ただ、山根さんと幼い頃から付き合いがあるおかげで、この和菓子屋内に限ってだけど、ちょっとズレた世界に行き来出来るのよ」 そう話す唯の姿が揺らぎだす。 「いっけない! そろそろ帰らないといけない時間だわ。ケイさん、人間社会でしか手に入らない物が必要なら、あたしに言付けて。お金はそうね、ケイさんが持っている銀貨でいいわ。じゃあ、失礼します」 くるりと後ろを振り向き、ぱたぱたと駆け出していくその後ろ姿は、和服から私が通っていた高校の制服姿へと変わっていく。 「ありがとう」 唯が去り、私は独りきりになった。居間のテーブルの上に残されたままのティーセットを洗い、風呂の湯を落としながら、身につけていた物を一つずつ、テーブルの上に置いていく。 ナイフ。異世界に行って始めて手に入れた物。これで芋を剥いたり、木を削ったり、獲物の肉を切り分けたり。異世界に行ってからやり方を学んだな。ここに砥石はあるだろうか。寝る前に研いでおこう。 片手で扱える剣。それもある言葉を唱えると、青白い光をおびて普通の武器では傷つけられない魔物と戦える力を持っている。 あるとき、いわゆる亡霊と呼ばれる者と戦ったことがある。ちょっと触れられるだけで、ホームに落ちる直前の私の心よりも深い絶望感を味わってしまった。そして、大猫に呼び止められなかったら、私はあのような者と同じような存在になっていたであろう。 長い旅路に重宝した品々。ランランに点す火一つにしても、簡単に火を付けられる物の存在を知りつつも、それを造る術がわからなかった。そういったものを調べておくのもいいかもしれない。 風呂が沸いたようだ。着ていた服は一応洗っておこう。かなり汚れているから、念入りに洗わないと。 身体に髪の毛を念入りに洗い、ぼうぼうに生えていた髭を剃り落とす。風呂に浸かりながら、人間社会便利さと快適といったものに痛感させられる。 ホームに落ちる直前の私、それから異世界で大きな出来事をやり遂げた後の私と違い、朧気ながらも道は続いている。迷いながらも、私はその先を歩いていくしかないのだ。 私は広い大海原に浮かぶような、そんな感覚を覚えていた。
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