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金木犀の残香
1
駅直結のスーパーで物色した惣菜を片手に数分歩くと印象的な赤いアーチ橋が見えてくる。遮蔽物のない橋の上を通ると、磯の匂いに混じって微かに香る金木犀がまだ汗ばむ9月上旬の港町に秋の気配を感じさせた。
エントランスの自動ドアをくぐり、こじんまりしたエレベーターで最上階まで登る。左奥突き当たりにある玄関は開閉するたびに大袈裟に喚く金属音が日々の小さなストレスだ。
最寄駅から歩いて10分程度。線路脇に建つ築15年の鉄筋コンクリートマンションは27歳の独身男が住むには十分過ぎる広さの2DK。
シャワーを浴び、夕食を頬張りながら見るテレビの向こうでは、ミスなんちゃら大学のお天気キャスターが明日の気温を淡々と伝えている。時計に目をやると時刻は午前0時を少し回っていた。
今週もまだ32時間以上働かなければならない。ため息をつきながら照明を落とす。自室の前を住人が歩いていく。コンクリートに反響する遠慮がちなハイヒール音を子守唄に意識が遠のいてゆく。
確認し忘れたSNSのチャックは明日にしよう。今日はまだ月曜日だ。
2
駅直結のスーパーで物色した惣菜と発泡酒を片手に10分程歩くと印象的な赤いアーチ橋が見えてくる。遮蔽物のない橋の上を通ると、鼻腔をつんざくように香る金木犀が少し冷え込み始めた10月下旬の港町に秋の訪れを告げている。
シャワーを浴び、夕食を頬張りながら見るテレビの向こうでは、スーツに身を包んだ中年の男性アナウンサーが明日の気温を淡々と伝えている。
いつの間にかお天気キャスターの女の子は姿を消していた。時計に目をやると時刻は午前0時を少し回っている。
このマンションに越してきて約2ヵ月。考えてみれば新天地で迎える初めての連休だった。発泡酒を片手にザッピング。いつもの就寝時間は過ぎていたが久しぶりの連休だ。
たまには夜更かしもいいだろう。
——静かな夜だった⋯⋯。
テレビから聞こえてくる芸人の笑い声に混じって聴き慣れた足音が近づいてくる。
彼女の姿は一度も目にしたことはない。毎日聞こえてくる小気味よいハイヒールの音色はもはや欠かすことのできない優秀な安眠導入剤だ。
女性でありながら毎日こんな深い時間に帰宅する彼女に、いつしか凄腕のキャリアウーマン像を勝手に想像している自分がいた。
——瞬間窓の外に感じる違和感⋯⋯。
感覚のすべてが聴覚に集約されていく。
発泡酒から立ち上がる気泡の破裂音。目の前の道路を時より走る車輪の残響。遠くで微かに聞こえる犬の遠吠え。
テレビの中の馬鹿騒ぎは相変わらず続いている。
ハイヒールの音が止んでいた。
発泡酒をもつ右手に力が入る。発汗。向かって左の遮光カーテンに視線を移す。遮光カーテンの薄い群青が遮るその先。
限りなく確信に近い疑念。隙間から漏れ出す気配に狼狽した。
⋯⋯1ヶ月、いや2ヶ月近くになるか。毎日気にとめたこともなかった。ただの日常だと思っていた。
部屋の前を歩くことなどありえない⋯⋯。
ここは、最上階の角部屋だ。
動揺を隠し自室を出る。足がふらつく。じっとりと濡れている左手が玄関扉に触れる。あまりの冷たさに酔いが覚めた。
右目をかざした覗き穴からみえる湾曲した世界はこちらの求める対象を都合よく写し出してはくれない。気持ちがせいた。
代わり映えのしない風景を何度も確認する。憶測や妄想、 いくつもの疑念が滲んで消えた。
⋯⋯どのくらいそうしていただろうか。
唐突に響く足音。覗き穴に飛び込んだ時には遅かった。鉄の扉に耳をそばだてる。自分の呼吸音が邪魔だ。
遠のいてゆく足音に以前の安らぎはない。足音はやがてエレベーターの起動音にかき消され完全に聞こえなくなった⋯⋯。
右手の中でいびつに潰れた発泡酒を飲み干す。一瞥した玄関ドアには、汗と油で描かれた自身の横顔が油絵のようにはっきりと残っていた。
3
23時50分。
自宅正面、道路を一本隔てた先にある公園は平日ということもあり人影は見えない。ケヤキの大木に混じって公園を囲うように植栽されている金木犀の橙から視線を外し自室を一瞥した。
この位置からならばマンションの全容が確認できる。
部屋の前は何度も確認した。窓の外にはエアコンの室外機が一台あるだけで別段おかしな様子はない。普段と変わらない状況にますます不安が募った。
夜な夜な知らない女が自分の部屋にやってくる。しかも毎晩。一晩中考えたが、原因やそれらしい該当人物の見当はつかなかった。
おそらく今夜も来るのだろう。目的を確かめたい。
1人公園で女を待つ。はたから見たらこちらが変質者だ。
——予想通り女はすぐに現れた。
毛先に向かってカールした肩まで伸びる長い巻き髪は、フェミニンな印象を演出するのに一役買っている。上下グレーのセットアップスカートに黒いショルダーバッグ。ハイヒールだとばかり思っていた足元はどうやらパンプスらしい。
恐ろしく若く見える。
就職活動中の大学生といわれれば信じただろう。いや実際にそうなのかもしれない。女が醸し出す雰囲気にはそれだけのあどけなさを感じた。
下手をしたら未成年の可能性すらある女。遠目のため顔ははっきり確認できないが、少なくとも知り合いではない。誰なのか見当もつかなかった。
当たり前のようにエントランスに入っていく。マンションから距離を取り、12階を見上げていると程なくして女が現れた。向かって右奥の部屋の前で立ち止まる。午前0時6分。
間違いなくこの女だ。
距離にしておよそ50m。マンション共用通路の照明が女の背中をぼんやりと照らしている。
突然視界から消える女。かがんだのか。 下からでは様子を窺い知ることはできない。
不安が募る。確認したい衝動にかられる。だが鉢合わせるわけにはいかない。何が目的かもわからないのだ。
逡巡の隙、気がつくと女はエントランスを出ていた。
慌てて後を追う。
道路を隔て距離をとり並進する。時折走る車の音に遮られながらもはっきりと聞こえる耳慣れた足音。
声をかけるべきか迷った。
女は交差点を直進し駅の方向へ進路を取り直している。電車に乗るのだろうか?
家を確かめるべきか。いや、そんなことをしたらこちらが危ない。
遠のいていく女の後ろ姿から視線を切り自室を見上げる。先ほどの出来事が毎日繰り返されていたのかと思うと改めて寒気がした。
再び視線を向けた時、女の小さな背中と夜の闇の境界線はすでになく、10月の素風にのって漂う金木犀の香りが普段と変わらない港町の静寂を守っていた。
4
翌朝。
昨夜自室に戻る際にも別段変化はなかった玄関を再度確認する。
やはり何かされているわけでもない。どうしたものか思案しながら玄関の鍵を回す。
手が滑って落とした鍵は右手にあるエアコンの室外機の下へ消えていった。
しゃがんで手を突っ込んだ時、室外機と壁の隙間、5cmほどの空間に何かが挟まっていることに気づいた。
鍵と共に拾い上げる。
葉書サイズのベージュケース。中に何か入っている。開閉部のボタンが硬い。
力をこめた瞬間、反動で中身が溢れた。
瞬間、廊下に散乱するおびただしい数の写真に意識が吸い込まれる。
その中の1枚、屈託のない笑顔でこちらを見つめる男性と目があった。
見覚えのない男性。共に映る女性をみて息を飲んだ。
あの女だった。
昨日とはずいぶん雰囲気が違っている。
ストレートの黒髪にグレーのパーカー。実物よりいくぶん大人びてみえる女の右手は隣に座る男性の左手と繋がれている。
散らばった写真をかき集めると50枚以上になった。
公園、遊園地、映画館、ショッピングモール。すべての写真が2人のツーショットだ。
その中の数枚、見覚えのある背景に目が止まる。見慣れた白い壁紙に見切れているが微かに映る印象的な窓枠のデザイン。紛れもなくこの部屋だった⋯⋯。
2人を眺めながら止まらない妄想が頭の中を駆けめぐる。この2人の間に起こったこと。詳細は知りようもないが想像に難くない。客観的に考えれば衝撃的な出来事であるはずなのに動機の一端を知ったからだろうか。不思議と安堵していた。
おそらく今夜も彼女はくるのだろう⋯⋯。
⋯⋯少し迷って写真をケースに戻し、あった場所へそっとかえした。
5
仕事帰り。
駅直結のスーパーで物色した惣菜を片手にロータリーを横切る。交差点を渡った先のコンビニを通過すると右手にみえてくる小さな公園。懐かしい香りに視線を投げた。花壇の中、無数に咲く小さな橙が目に留まる。
自然と足が伸びる。平たく細長い葉に紛れて広がる金木犀の花。
蘇る数年前の記憶。
気がつくとあっという間に1年が過ぎていた。急な転勤が決まって街を離れたのはあれからすぐのことだ。引っ越すまでの数ヶ月、彼女は毎晩やってきた。あの日見たルーティンを繰り返しに。
あの写真は、あの室外機の裏に置いた写真はまだあるだろうか⋯⋯。
もしかしたら、いや、おそらく管理会社か退去後に入った清掃業者あたりが見つけて処分してしまっただろう。
彼女は、どうしただろうか⋯⋯。
見上げると、初秋の空には三日月にうっすらとかかる雲がたなびいている。公園内の緑葉たちが一様にさざめきだす。
スーツのボタンを締め直し公園を後にする。
風が、強くなってきた。
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