本編

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本編

 タイピング音やコピー機の稼働音が鳴り響くオフィスで、何名かの社員が残業している。企画の進行度合いによって異なるが、この会社ではいつも誰か一人は夜遅くまでオフィスに残っている。  「ふぅ……」  最後の文字を打ち終え、明後日の会議用の資料を完成させた。長い時間息を詰め、集中して作業を行なっていた為か、自然とため息が溢れた。他の社員の邪魔にならないよう、控えめに手足を動かして凝り固まった身体を解す。血流が身体に巡るようになってきた所で、持ち物を鞄に仕舞い、デスク周りも整える。少しして出社準備が整った所で、忘れ物が無いかチラリと確認しながら、静かに立ち上がる。コロコロと回転椅子のキャスターが回り、僅かにギシリと衝撃音が出る。  他の社員に声を掛けるか逡巡し、退社を伝えておいた方が最後に出る人の迷惑にならないと判断した。高くも低くもない声で一言声を掛け、タイムカードを切り、オフィスを後にする。  「お疲れ様です。」  「はい、お疲れさんね。」  警備員さんにも声を掛け、会社を出た。腕時計を確認すると、時刻は午後11:30。まだ終電のある時刻の為、疲れた身体に鞭を打ち、早足で最寄駅へと向かった。終電を逃せばタクシーを呼ぶしかない。今日はお酒を飲む気分でもなかった為、直帰する事にした。  「ん〜、遅くなっちゃったな……」  もっと仕事がデキる人なら、定時で退社する事だって出来るのに……思わず自分の能力の低さに落ち込んだ。  最寄駅までは歩いて10分程度。オフィス街を抜け、大通り沿いに西へ歩けば、たちまち駅の入り口が見えてきた。駅の構内に入り、改札を抜けてプラットホームへと足を進める。日常敵に利用している事で頭に刷り込まれた時刻表からすると、あと3分程で電車が到着する。事故での遅延の知らせのアナウンスもなかったし、通常通りの時間に来るだろう。  「まもなく、1番ホームに○○経由□□行きの電車が参ります。黄色い線の内側に下がってお待ち下さい。」  独特のメロディが流れた後、駅員特有の話し方でアナウンスがされた。列車が入ってきた勢いで風が起こり、ジャケットやスカートの裾が靡く。扉が開き、のそのそと歩いて乗り込んだ。  車窓からの景色は代わり映えなく、車内の広告に真新しい物もない。ただただ、ぼうっと窓の外を見つめ、窓ガラスに映る疲れ切った顔の自分と対面し続けた。ああ、疲れた顔してんなぁ……としか感想が浮かばないし、ありふれた顔立ちと睨めっこしても何ら面白みもない。化粧で多少はマシに見える顔立ちも、風呂上がりには平凡な平面顔とご対面するんだから、自惚れるなんて事は万が一にも起こり得ない。悲しいぐらいに何もないのだ。年齢的には彼氏の一人や二人出来ていても可笑しくない所か、結婚していても不思議じゃないんだが。お生憎様、その手の浮かれた話題にはてんで縁が無いもので、此処数年は特に仕事に追われて、会社と自宅を往復するだけの日々を送っている。学生時代はこんな大人になるなんて思ってなかったし、中高生の頃が1番キラキラしていて、大学生の頃が1番自由だと感じられた。早く大人になりたいという思いも、今ではあの頃に戻りたいの一点張りだ。本当に時の流れという奴は残酷だな。  「まもなく、◆◆、◆◆。お出口は右側の扉です。扉に手を触れないようご注意下さい。」  どうやら、グルグルと思考を巡らせている内に下車駅が迫ってきていたようだ。腕時計に目を落とすと、針は12を少し過ぎた所にあった。やはり日を跨いでしまったようだ。  列車が完全に止まるのを待ってから立ち上がり、開かれた扉から駅に降り立つ。下車した付近の出口から改札を経由して駅の外へと出た。  しんと静まり返った駅前には殆ど誰もおらず、居たとしても帰りを急ぐように駅から離れていく者ばかりだ。かくいう私もその1人。早く帰りたいという思いとは裏腹に、クタクタになった身体はゆったりと歩く事しか許してくれない。仕方なく逸る気持ちを抑え、スマホのライトを片手に転ばぬよう慎重に歩き出す。  この辺りの地域は、市街地から少々離れた場所にあり、街灯も疎らで夜更け過ぎともなると人気も無い。昔は活気のある商店街や昔ながらの喫茶店に写真館、比較的新しく出来た映画館、色々な遊具がある広々とした公園などに人が集まり、皆明るく楽しそうに暮らしていた。だが、それらは時代の流れと共に廃れていき、シャッター街と化した商店街に、喫茶店や写真館の跡地に建つ某コンビニや某居酒屋チェーン店、1日に数本しか上演しなくなった古臭い映画館、錆び付いた遊具の集まった不気味な公園へと変貌した。悲しいが仕方ない。それが人の営みというものだ。  「……あ。」  そんな事を考えながら感傷に浸っていると、不意にある建物が目に飛び込んできた。夜遅くハッキリとは見えないが、恐らく映画館だろう。昔ながらの外観に、今よりも少なく質の悪い座席と小さなスクリーン。飲食物の販売もあまり種類がなく味もそこそこの為、好んで買う者はいない。  「昔はよく来ていたんだっけ?……ははは、何だか懐かしいな。」  父に連れられて昔の特撮物や刑事物をよく見せられていたものだ。あの頃は今時とか昔ながらとか関係なく、ただ目の前の作品が面白くて見ていたな。ある程度歳を重ねてからは、今時の映画がロクにやっていない事に不満を覚え、態々何駅か先の映画館に行っていたが。  『**は将来何になりたいんだ?』  『私?私はね、将来ーーー』  ……あれ、あの時私はどう答えたんだったか。周りの子がいう憧れの職業の内の1つでも口にしたんだろうか?  「…………いや、違う。」  『正義のヒーローになるの!私が皆んなの笑顔を守るよ!』  『お〜、そうかそうか!**はヒーローになりたいんだな!うんうん、お父さんカッコいいと思うぞ!**ならきっと凄いヒーローになれるさ!』  『……なら、お父さんも……笑えるようになるよね?』  『えっ……あ、ああ!勿論さ!』  『本当?……そう。……私、頑張るね!』  『おう、頑張れよ!お父さんも応援しているからな!』  『うん!』  「……私、正義のヒーローになりたかったんだ。」  思い出してみれば、何とも子供らしく現実味のない夢だが、当時の私は本気でそうなりたいと思っていたのだ。  私の家は5歳の頃に母を交通事故で亡くして以来、ずっと父子家庭だ。祖父母は私が生まれる数年前の震災で亡くなっていて、兄弟も居なかったから、血縁は父のみだった。他の親戚筋とは縁遠く、父は男手ひとつで私を育ててくれた。父には本当に感謝してもしきれない。  そんな父は母を亡くしたショックで上手く笑えなくなってしまい、悲しそうな顔をするようになった。当時の私は母が亡くなった事に実感が持てず、何故父が以前のように笑ってくれないのか不思議に思っていた。大好きな父の笑顔が見れないのが嫌で、どうしたらいいのかと必死に考えた。そして、特撮物の映画をヒントに正義のヒーローになれば父も皆んなも笑顔に出来ると結論づけた。それが先程の回想という訳だ。  まだこれだけなら良き思い出話かもしれないが、当時の私は本気で正義のヒーローになろうと動いていたのだ。クラスの男子には『女のくせにヒーローになりたいなんて生意気だ』と言われたり、短髪に男装をしていたらクラスの女子に『どうして皆んなみたいに髪を伸ばしたりスカートを履いたりしないの?**は女の子なのに変なの。』と言われる始末。果てにはそれをきっかけにいじめが始まり、ヒーローになりたくて体力作りで筋トレや走り込みをし、護身用の体術を習っていたもののマスターしていた訳ではなかったし、いじめ自体は言葉の暴力や物を隠す・壊す・燃やす・濡らす、水を被せる、下駄箱や机の中に虫やネズミの死骸・呪いの手紙・蔑み罵倒する言葉が書かれた紙がつっこまれている、椅子や靴の中に画鋲が敷き詰められている等、陰湿なものばかりで水以外は直接的被害がなかった上に、集団で行われていたからか犯人を特定する事も難しく、父に心配をかけまいとした私は泣き寝入りをするしかなかった。  だが、中学生になる頃には背も伸び、髪もショートヘア程度には伸ばした上、女子用の制服を着ていた為、外見が平凡だった事もあり、クラスに溶け込む事が出来た。友人もそれなりに居たし、それなりに楽しかった。オシャレだって自由の効く範囲で楽しんで、今までの人生の中で1番キラキラした時間を過ごした。……その代わり、正義のヒーローになりたいという夢を口にする事は二度と無かった。……そして私は、男女問わず誰かを守る仕事に就きたいと考えるようになった。正義のヒーローは無理でも、誰かを守れるならそれでいいと思ったから。  ……そんな時だった。交通事故にあったのは。通学途中で信号無視した車に撥ねられ、意識不明の重体になったのだ。一命を取り留めたものの、後遺症が残ってしまい、日常生活を送る分には問題ないものの、もう二度と激しい運動をする事が出来なくなった。おかげで誰かを守る所か、誰かに助け守られなければ生きていけなくなってしまった。リハビリの末、1人でに動けるようになったものの、全力疾走は出来ず頑張っても早歩きがいい所で、学校も入院とリハビリの為にマトモに通えなかった。何とか中学校を卒業し、必死に勉強して高校に入学し無事卒業した。……警官や消防士などの公務員になりたかったが、身体的ハンデが大きく断念し、ならばと法学部を受験するも落ち、滑り止めの大学に入学し卒業。就活でも身体的ハンデがある事や加えて女である事で非常に難航し、やっとの事で掴んだ働き口がこの会社だ。誰かを守る仕事かと言われると答えはNO。すごく広い意味で言えば守っているのかもしれないが、それなら他の職業も当てはまってしまうし、そもそもこのような形で誰かを守りたかった訳ではなかった。……1番笑顔にしたかった父も大学卒業と同時に力尽きたように過労で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。最期まで父の表情筋が上手く動く事はなかったが、今際の淵で見せた引きつった下手な笑顔が今でも頭から離れない。……父が亡くなった事で私は天涯孤独の身となり、他の親戚筋の連絡先や住所すら知らない為、非常時に頼れる人も居ない。  今はただただ同じ事を繰り返して日々を過ごすだけ。俗に言う『つまらない大人』とやらになってしまった。……正義のヒーローになりたかった少女は、平凡なOLとなったのだ。  叶わぬ夢の為に必死になっていたあの頃の情熱は何処かへ行ってしまったが、この世を儚んで死ぬなんてのも嫌で、今はただルーティンを熟すだけの毎日を送っている。  不幸だなんて嘆きはしないさ。他の人を羨む事だって勿論あるが、妬み嫉んだ所で現状が変わる訳でもないのだ。それに、そんな感情は好きな音楽を聞いたり、色んな本を読んだりするだけで飛んでいくものだから、それほど重要な感情では無いのだろう。  誰に話すでもないが、頭の中で整理を付けたくて……そんな長い長い、叶わぬ夢の話をした。  寂れた映画館の前で、ふいに晩年よりも若い頃の父と、その父に連れられて映画を観に来た幼い頃の私が見えた気がした。  『お疲れ様!今日もお仕事よく頑張ったな!お父さんはいつまでも**の事、空の上から見守っているからな!』  幼い私の手を引く父が此方を振り返り、今の私に向けてそうやって言葉を投げ掛けてきた。  「……うん、ありがとう……元気でね、お父さん。」  頬を幾度となく涙が伝い、声を震わせながら、懸命に繕った笑顔で父に言葉を返した。 ……葬儀の際にとっくに別れを済ませた筈なのに。これは疲労の末に見た幻覚や幻聴だろうに。……どうしてこんなに暖かくて切ないのだろう。  映画館に背を向け、踵を返す。潔く父と別れる為に。……もう一度だけ顔を見てからにしようと後ろを振り返ると、そこには誰もおらず古びた映画館がポツンとひとり寂しく存在しているだけだった。  それで吹っ切れた私は今度こそ此処から離れようと前に向き直り家路を急いだ。  その日以来、不思議な事に以前よりも晴れやかで穏やかな気持ちで生きられるようになった。  ーーー河清。それは叶わなかった夢。  ーーールーティン。それは決まり切った仕事をする事。  少女は叶わぬ夢を見て挫折し、成長後は代わり映えのない日々を送っていた。だが、ある日の夜明け過ぎ。閉館後の映画館の前で、叶わぬ夢の話をし、過去との折り合いを付けた事で、昔のように前向きな気持ちで生きられるようになった。  これはとある女の心境の変化を描いた物語。何処にでもある、少し不思議なだけの物語。
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