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「そういや、家に行くことは何回かあったけど、泊まりは初めてだね」
抵抗なく受け入れたが言われてみればそうだ。家に来ても宅飲みして、愚痴を言い合って終わる。
「お酒きらしてるけどコンビニ寄る?」
そう訊いたが、さっきまで呑んでいたからといって断られた。チカチカと点滅する街灯の下をなぞるように住宅街を歩いた。卒業してすぐに家を出た。親からの援助はなかったため、低家賃のアパートに住んでいる。見た目はさほど古くないが、家の中に入ると年季を感じさせるような畳やキッチンがある。家につく頃には互いに酔いは覚めているようだった。
お邪魔しますと丁寧な挨拶をしてから美穂は中に入った。わざわざ言わなくてもいいのにと指摘するが、親しき仲にも礼儀ありでしょと返された。
「で、先輩の写真は?」
早々に急かしたてた美穂に背中を向けて高校時代に愛用していたファイルを取り出した。写真は一番上にしまっていたので、すぐに見せることができた。
「ほら、この人。私の前にしゃがんでいる人」
指で指し示した先を美穂は眉間にシワを寄せて見つめた。
「なんとなく、きれいな人だということはわかるんだけど画質悪いね!」
「写真の場合は画素じゃないっけ……?」
訂正を入れたが美穂は特に返事をすることなく、なんとなくさみしげな表情をしてその写真を見つめていた。そこから高校時代の話に花が咲いた。学校祭の話や修学旅行、こわかった先生の話や好きだった人の話までした。お酒のない状態でここまで語り合っているのは初めてだった。高校時代、他校の生徒と関わることのなかった私にとっては新鮮な話ばかりだった。思えば中学時代の友達とも気づけば疎遠になっていたのだった。
「私ね、好きな人いるんだよ」
唐突に美穂はそう言った。どこの部署の人なのか、どんな人なのかを尋ねても困ったような顔をして笑うばかりだった。まさかと思い、不倫なのかを訊くとすぐに否定した。
「不倫だったらまだいいじゃん。相手にされるんだから」
「いや、相手にされるって言っても人として扱われてないから不倫なんじゃないの?」
「まぁ、難しい会話はよそうよ」
そう言って、美穂は私のベッドに寝転がった。もう眠たいということなのかと思い、電気をオレンジ色に変え隣に寝転がった。何も言葉を発さない空気になんだかドギマギしてしまっていた。先にその空気を破ったのは美穂だった。私の方に身体を向けなおし、頬にそっと手を伸ばされた。
「私の、好きな人。あんたなんだよ」
言葉が、出なかった。
「憧れとかじゃない、ちゃんとした恋愛感情で好きなの」
なにも言えないでいる私に美穂は更に続けた。
「私の方なんか見なくたっていい。ずっと、先輩を追いかけていたっていい。私をその隣にいさせて?」
「意味が、わかんないよ……」
「私を先輩だと思っていてもいいから」
少しだけ強くなった口調で美穂は唇を重ねてきた。ぽたりと頬に涙が落ちてきた。その表情はどこか寂しいような、嬉しいような、悲しいような、多くのものが混じっているようだった。抵抗できないまま、もう一度唇を重ねた。
一夜があけ、目を覚ました朝にはもう美穂はいなかった。休みが終わり、仕事に行くとそこにはいつもの通りの様子で働く美穂がいた。自分だけが、悩んでいたみたいで少しバカらしくなってしまった。
それからの日々は、平然としていた。特別変わったことはなく、普段どおり仕事をこなしていた。だが、2人のこの関係はその後も続いた。一夜限りにはならず「飲みに行こう」がいつの間にか、誘い文句となっていた。それ以上も、それ以下の言葉もなかった。
私は先輩の影を、美穂は私自身を求めながら、互いに埋まることのない穴を薄い膜で覆うように身体を重ねていった。
蟻地獄にはまったかのように抜け出せない呪いに2人は静かに沈んでいった。
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