第二章 その男のはらわたに眠る野望

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 次の日の午後、私は例のテブレヒトの部屋まで足を運んでいた。  屋敷の西側の奥にあるその場所は、何処か薄暗くじっとりとした雰囲気が全体に行き渡っていた。それがなんとも言えない不気味さを感じさせる。  チェリコットを持ち上げ隣を歩くヨセフも、その空気にやられたのか少し顔をしかめていた。 「なーんか、ここっていつも嫌な感じなんですよね。  所で俺は練習中はどうすれば良いですかね?」 「…まぁ、そうだな。基本は外で待っててくれ」  私がそう答えると、ヨセフは少し驚いた顔をしたあと、肩をすくめては「りょーかい、まぁ頑張れよ」と言って何処か困った顔で笑った。  一応年頃の男女を二人きりにさせてはいけないという常識が働いたのだろうが、私にとっては今更である。むしろ、ヨセフがその最たるものだ。  まぁ、実際そこまで気負うことはない。ただ叔父からチェリコットの指南を受けるだけなのだから。だが、来年のこともあるため、テブレヒトに会うということを妙に意識してしまっている節がある。こればかりは仕方ないだろう。  私は小さく吐息を吐き出し、部屋の木造りの扉をノックした。すると、先日聞いたテブレヒトの声がする。 「どうぞレオノーラ、入っておいでよ」 「…失礼いたします」  ヨセフに扉を開けさせ、中に入る。その間にヨセフは室内にチェリコットを置き、部屋から出ていった。  私はそれを見届けると、顔を上げテブレヒトの方に目を向ける。  テブレヒトは部屋の中心に置いてある華奢な椅子の上に腰を掛け、金のアーチに弦が張ったチェリコット身に持たれ掛けさせていた。  長いつやのある前髪が、彼の片目を隠す。外に出ないためか陶器のように真っ白な肌と、漆黒の髪が見事なコントラストを生み出していた。そして、唇の下のほくろが怪しげで魅惑的な雰囲気を醸し出す。その姿が生み出す色気は、他の姉弟にはないテブレヒト独自のものだ。  部屋は何処か全体的に薄暗く、窓ガラスから入ってくる白光が部屋に閑散としたもの悲しい雰囲気を与えている。  扉が閉じる重苦しい音と空気圧と共に、テブレヒトはその血色の悪い唇を開いた。 「ようこそ、レオノーラ。いや、僕の分身さんと、呼ぶべきなのかな」  自然と紡ぎ出された言葉に、私は心底ヨセフを置いてきて良かったと感じた。 「…知ってらっしゃるんですね。養父様からはお話をお聞きになってるんですか?」 「そりゃね。とは言っても、昨日姉さん達が来たときに知らされたばっかりなんだ。君に至っては僕の存在自体、知らなかったみたいけど」  そう言って声を忍ばせ笑うテブレヒトに、私はうんざりとして肩を落とした。一体何度このことで馬鹿にされれば気が済むのだろうか。  しかし、やはりというべきかあの日、コルネリアやエッカットが屋敷に来ていたのはこの件の話をしに来ていたと言う事だ。私に関することではあるとは思っていだが、あの時はまだこのような事態になるとは予想できていなかった。  暫くして笑いを収めると、彼は向かい側に用意された椅子に腰をかけるように勧める。私は頷き、チェリコット抱いてそこに腰をおろした。キイッと、木材のきしむ音が部屋に響く。 「この前はあれだったから、正式な自己紹介をしようか。  僕はテブレヒト・ルヒデコット。先代ルヒデコット侯爵の三男で、君の叔父だ。  年は勿論15歳、第一王子と同い年。もうなんの意味もない数字だけどね」  皮肉を込めているのか、そう言ってテブレヒトは冷笑する。  それに対して私は特に反応せず、前回と同じ挨拶返した。そのことに対してテブレヒトは肩をすくめて、「面白みがないね、君は」と鼻で笑う。  この前あった時は思わなかったが、この少年中々いい性格をしているようだ。こういう手合は相手にしないことに限ると里で学んでいる。 「まぁ何にせよよろしく、レオノーラ。僕は冬になる前にこの屋敷を出ていくから、それまでの付き合いになるけど、せっかく年も近い訳だし仲良くしよう」  どうやら、テブレヒトは秋にはこの屋敷から出ていくようだ。確かに、使用人に怪しまれないためにも、テブレヒトがここに留まっているのは不味いのだろう。いくらヨセフの言うとおり、私たちに不振な動きが公然の秘密となっていても、最低限の対策はしておくべきということだ。 「そんな訳だけど、取り敢えず君の噂のチェリコットの腕を聞かせていただけるかな。全てそこからだからね」  噂の、というのはどのような意味なのだろうか、実に気になる限りである。そんなことを思いながら私は仕方なく頷くと、身にチェリコット近づけた。  チェリコットは木製ののアーチに弦が張られた楽器で、それを弾くことによって音を出す。私のチェリコットは暗い色の塗料の塗られたもので、それ膝にそれをのせ演奏する。その調べはそよ風を紡ぐような優しく澄んだ音。  指の皮が摩擦で熱を帯びるのを感じながら、私は取り合えず思い付いた聖歌の炎を称える歌を唇から紡いでいく。その間、テブレヒトはその漆黒の長いまつげを伏せて、私の歌を聞いていた。そのまつげが彼の瞳に影を落とす。  そしてしばらくした後、私の演奏が終わると、ゆっくり顔を上げてテブレヒトは魅惑的な笑みを溢した。 「…ごめん、想像を絶する酷さで途中から耳に入れるのが苦痛だった。これなら屁で紡ぐ音楽のほうがマシとさえ思うよ。  何だろう、君には絶望的に何かが足りていない気がする。歌でごまかせる範囲にすることが目標というのも全く持って頷けるね。これは酷い」  痛烈な批判が心にダイレクトな攻撃を加える。  分かってはいたが、想像の3倍ひどい罵倒である。 「これでも楽譜通りに弾いてるんだ。それの何がいけないって言うのか」 「そうだね、楽譜通りに弾くことはできてる。でもこれはノルマをこなすようにやる物じゃない。音をとりあえず出せばいいみたいなやり方は音楽への侮辱だね」  馬鹿にしたように鼻息を荒くするテブレヒトの視線から思わず目を逸らす。  日頃チェリコットを習っている楽師と同じとこを言われたことが悔しい。  その後、テブレヒトによる徹底的な指導が続いた。チェリコットの音の出し方から、姿勢まで口を出される。終わる頃には私は干乾びた干し肉のごとくゲッソリとしたありさまだった。 「今日はこんな所かな。正直、秋までにどうにか人前に出せるレベルまで持っていけるかは疑問だけど、この調子でやっていけば多少ましにはなるんじゃない」  手を軽く叩いて終わりを告げるテブレヒトに、私は溜まりに溜まった疲労が全身から吹き出る思いがする。これがこれなら何回もあるなど信じられない。とてもこの少年を観察する暇などない。 「ご指南、ありがとうございました…」  私が最後に残った気力で振り絞った一言を、テブレヒトは鼻で笑った。本当にいい性格をしている。引きつる頬をそのままに、重い体を引きずって私が出ていこうとすると、「ねぇ」とテブレヒトに呼びかけられる。  私がげっそりとした面持ちで振り返り彼の方に目を向けたところ、彼は何故か窓の外を眺めていた。その青白い肌が照らされ影をさす姿が、何処か儚さ感じさせる。 「君の本当の名はなんて言う? レオノーラは本名ではないんだろ」  私は一瞬答えに詰まる。 「ありませんよそんなもの。私はここに買われてレオノーラになった。それだけです」  ユーリカは、既に捨てた名だ。私の脳内に里の白銀の姿が過る。もう戻れない何かを引きずるほど愚かにはなれない。 「…ふっ、はは。そして何者でもない君は次はテブレヒト・ルヒデコットになる訳だ。傑作だね」  嘲笑にも似たその笑いが、薄暗い部屋の中で一人ごちに響く。それは私に対しての哀れみなのか、彼自身への蔑みなのか、私にはわからない。私はそんなテブレヒトをそのままに、部屋の外に出た。その扉が閉まるまでテブレヒトは何の感情も読み取れない表情で私を見つめていた。  重苦しいドアの音共に、扉は閉まる。  ドアの外で待っていたヨセフが顔を上げて私を見た。そしていかにも可愛そうなものを見る顔で「お疲れさまです。如何でしたか?」と問うてくる。この顔が楽しかったように見えるのなら、是非目の医者を呼んでやりたい所だ。
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