第0章 プロローグ

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◇◇◇  しばらく森を歩いた二人は、ポツリと立つ木製の古びた小屋の中に入った。  どうやらそこが老人の家であるようで、外にはうさぎの毛皮が掛かっている。それを見て女は老人がここらに住む猟師であることを悟った。  その小屋の中には一つの椅子と、暖炉、それから弓が立て掛けてあるぐらいしか物がない。老人は木でできた背の低い椅子を暖炉の前に置き、女に座るように促す。女が腰を下ろしたその椅子は軋み、小屋の中にその音が響いた。  老人は暖炉に薪をくべながら、ちらりと女の方を見やった。 「んで、あんたぁ、なんか覚えてることはあるんかい?」  女は静かに頭を横に振る。  老人はそうかと、口を閉じる。魔物と契った女はそれらの記憶を失う。わかりきっていたとはいえ、聞かずにはいられなかった。  老人は今朝の残り物である山菜と肉団子のスープの入った鍋を火にかけ、温まったところで器にうつし、女に差し出した。 「食べぇ、あんまり食べる気がないかもだけどな、食べんと死んじまうよ」  女は顔を伏せながらも、小さく頷き、その木の器を受け取った。そして、反対の手で匙を受け取り、少しずつスープを口に運んでいく。 「……美味しい」 「ならぁ、良かった」  女がそう言葉をこぼすと、老人は眉を下げた。  焚き火の薪が破裂音をたてながら燃える。小屋の外で風が吹き抜けると、木のきしむ音が屋内に響いた。  老人は女が定期的に顔をしかめるのを見て、自身の寝台を貸し与える。女は汗を額から浮かばせながら、寝台の上で横になった。 (随分、綺麗な言葉を使うお嬢ちゃんだぁな)  老人は自身の白髪を撫でながら、荒い呼吸をしてうずくまる女を見下ろす。  もしかすれば、何処かの高貴な生まれなのかもしれない。そういう家は穢れを嫌う。行方不明になった娘が、魔物の子を孕んで戻ってくれば、どうなることか。  女が頑なに村の名前を言わないのは、そんな理由があるからかもしれない。  魔物、という歪な獣は、たまに人間の女に自分の子供を孕ませる。生まれてくる子供たちは魔人と呼ばれ、彼らは一見して人間の子供と変わらない。  しかし、成長するにつれ奇形という独特の変化をし、人ならざるものへとなっていくのだ。  また奇形に伴い、魔人の子供たちは、魔物と同じように独特の力を使う。それを世間では魔法と呼ぶ。  この呪われた子供を妊った女の立場は弱い。  この女がいかに名家の生まれでも、一家揃って村で生きていけなくなるかもしれない。  それ程までに魔物の子を身籠ることは嫌悪されることなのだ。  だが、この女が生きていくためには、村に戻るしかないだろう。  老人は寝台に横たわる女をそのままに、一度暖炉の前に戻った。  まだ本格的な寒さにはなっていないが、妊婦には辛かろう。老人は火を絶やさぬようにしつつ、うつらうつらとしていると、突然寝台の方から唸り声が聞こえてくる。  老人は慌てて立ち上がり、寝台の方を見た。  寝台では歯を食いしばった女が、息も絶え絶えな様子で何かをつぶやき続けている。老人は女に駆け寄り、女の前に立った。 「大丈夫かいな?」  痛い、痛いとうわ言を呟く女に老人がそう話しかけると、女は歯を食いしばったまま唸り声をあげた。  どうも様子がおかしいと、老人は思う。  激痛に苛まれている女の腹は、随分と膨らみきっている。見たところ出産間近に見えるが、この時期の妊婦は随分と安定しているはずだ。  そこで、老人の中に嫌な予感が生まれる。  老人は女の下半身に目を向けた。白い女の服がぐっしょりと濡れており、白い服が紅に染まっていた。  間違いない、生まれるのだ。  老人はどうすればいいのか分からず立ちすくんだ。辺りは血の匂いで充満し、女が横たわる寝台が血で染まりはじめていた。 「痛い 痛い 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」  ついに耐えきれなくなったのか、女が悲鳴を上げる。それでも、老人は何もできずに立ちすくむしかなかった。女の服は深紅にそまり、寝台は血の海となっている。  老人はだまり込み、ただその様子を凝視するしかなかった。  それから、どれほどの時間が経ったのか、老人にはわからない。  長い長い夜の果て、女は一人の赤子を産み落とした。  ドロリとした血が絡まった熟れたように真っ赤な肌。開けきらない瞳。  その赤子は生まれ落ちたその時から、産声一つあげず、そこに横たわっていた。  死産かと、老人は思った。  老人は吐息をこぼし、力んだ体から力を抜いた。  微かに口角が上がっていることに無自覚なまま、老人はその赤子を抱き上げる。  赤子はやはり泣き声一つあげなかった。  だが、老人がその顔を覗き込んだその時、赤子の薄紫色の瞳がうっすらと開いた。そして、覗き込む老人を見返す。  老人は身がすくむような恐怖を感じる。  老人は恐る恐るその不気味な赤子を女の隣にそっと置いた。  女は骸骨のような人相で、その赤子を凝視していた。赤子もまた、女のことを見ていた。  女が右手を赤子の頬に這わせた。 「 」  女は水面に浮かぶ泡沫の様な言葉を吐き出す。だが、その言葉が何だったのか、老人にはわからなかった。  そして、女は愛おしそうに赤子の額に触れ、息を引き取ったのだ。
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