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見渡す限りずっと続く広い海がある。
水面からは天に向かって高い塔がいくつも伸びていて、その塔の一つにローズという名前の女性が住んでいた。
「マザー、今日の食事はなあに?」
ローズが尋ねると、マザーと呼ばれる塔のメインコンピュータは落ち着いた声で答える。
「今日は豆と野菜のサンドイッチです」
献立は数週間単位で同じ物が繰り返されるが、ローズは今日が何日なのかいつも忘れてしまうのだ。
サンドイッチを口に入れると、食器は全て機械が洗ってくれる。毎日の食事も機械やロボットが作ってくれるので、ローズは料理も片付けもしたことが無い。
洗濯されて綺麗に乾かされた服に着替え、ローズは今日という日を楽しむ。部屋で歌を歌ったり、マザーの出してくれた本を読んだり、踊ったり。
マザーのコンピュータで、世界に何が起きているかを眺めたり、遠くの塔にいる顔も知らない人と交信もした。
世界情勢はいつ見ても何の変化もない。世界は相変わらず水で満たされていて、ぽつぽつと点在するいくつもの塔で人々は生活している。
ローズはこの塔から出たことがないので、他の塔では誰が何人住んでいるのか知らなかったが、遠くの人々と交信する限り、大勢で住んでいる人は少ないようだ。
ローズは物心ついたときには一人だった。マザーの話では、ローズは植物と同じように研究室で生まれたらしい。
それを特別さみしいと思ったことは無かった。子供の頃は高い塔の上の階や下の階に行ってみた事もあったが、機械やロボットが動いているだけで、どこも代わり映えのしない風景だから、いつしか移動する事を止めてしまった。
その部屋にいれば望む物は何でも手に入るし、知りたいことはマザーが何でも答えてくれる。
それでも時にはローズは塔の部屋からベランダに出て、広がる海と、同じように遠くに並ぶ塔をぼんやり眺めた。
ある日ローズがそんな風に外を眺めていると、比較的近くにある塔からチカチカと光が瞬いているのが見えた。
「マザー、遠くを見る機械はないの?」とローズが聞くと、マザーは双眼鏡という筒を出してくれた。
それを持って窓から外を眺めると、同じようにこちらを見ている人が見えた。何か光る物を手にして、こちらに向かって振っている。
「マザー、あの人は何をしているのかしら?こっちを見て手を振っているわ」
マザーは質問に答えなかったが、ローズはその人の事が気になって仕方がなかった。
「もしかして、初めて人に会ったんじゃないかしら」
会うと言っても豆粒のような大きさにしか見えないし、双眼鏡でやっとその人の髪が黒いことや着ている服がローズとは違う事が分かる。もしかしたらマザーに教えてもらった男という性別の人かもしれない。
「マザー、あの塔のコンピュータと交信出来ない?」
「番号を入力してください」
「番号……知らないわ」
塔のコンピュータで通信するのはあきらめて、ローズは原始的な方法で彼とコミュニケーションをとることにした。例えば手を振ったり、ベランダで踊って見せたり。
ある日彼は紙に何かを書いてこちらに振っていた。
双眼鏡で見ると『私の名前はパースです』と書かれていた。ローズも大急ぎで自分の名前を彼に伝えた。彼はローズの思った通り男性だった。塔の番号を文字で聞いてみたけれど、パースは番号を知らないようだった。
その日から、ローズは遠くの顔も知らない人と交信するよりも、近くの塔に住むパースと交流することが楽しくなっていた。
ある日何日も雨が降り続き、マザーは塔の窓を全て閉め切ってしまった。
ローズは塔の部屋で好きな事をしようと思ったのに、結局何もする気になれなかった。部屋のベッドに座り込み、パースの事を考える。
「会いたいわ……」
無意識に口からこぼれた言葉に、ローズはうろたえた。
パースに会う?どうやって?
塔を出たことはない。下の方の階もどうなっているか分からない。それに、塔と塔の間には広い海があるのだ。
「マザー、海というものは何で出来ているの?どうやって渡るの?」
マザーは海の情報を画面に表示し、海を描いた絵や文字をいくつも見せてくれた。
「これは何?」
「船という物です」
船があればいいのね。そうすれば、パースに会いに行ける。そう思ったローズは船をどうやって作るかマザーに聞いた。マザーが言うには、塔の下の部屋には小さな船がたくさん存在しているという。
ローズの平和で単調な人生はパースに会うという一大イベントですっかり魅力的なものとなった。
『あなたに会いに行きます』
ある日ローズはベランダにパース宛ての文字を残し、彼に手を振ってから下の階へと下りていった。
想像以上に階段はきつかった。一気に降りられる動力装置のような物は無く、ひたすら階段を下りていく。普段それほど歩かないローズの足はすぐに根をあげてしまった。
下りていくと、それまで動いていなかった場所がローズに合わせて動き出す。マザーがロボットに指示を出して動かしているのだ。階段の灯りはローズに合わせて点灯し、待機していたロボット達がローズの訪問に合わせて部屋を掃除した。
「マザー、疲れちゃったわ」
十数階下の部屋のベッドで、ローズは足を擦りながらマザーに泣き言を言った。それでも止める気にはならず、翌日も階段を下りていく。
「私はどうしてパースに会いたいのかしら?この気持ちは何だと思う?」
ローズの疑問に、マザーはそれは愛ではないかと答えた。
「愛とは何?」
そうするとマザーは愛について書かれた本を数冊出してくれた。ローズはのんびりと階段を下りながら、夜は愛についての本を読んで過ごした。
愛とは注ぐもの。愛とはすべての力の源。愛とは溺れるもの。愛の反対は無関心。
本に書かれたたくさんの愛の物語は、ローズにはまだ難しくてよく分からなかった。
ベランダからパースのいる塔を眺めても、どの階にパースがいたのかよく分からない。ずいぶん日にちが過ぎたような気がしたが、海面は次第に近づいてきた。
波の音が聞こえてくるようになった。
朝の光の中ではエメラルドグリーンに美しく輝く海も、夜の闇の中では真っ暗だ。そんな場所を船で渡るのは怖いことのように思えた。
「ついに来たわ」
海面がすぐ近くに迫っていた。
下の方の階は古びていて、常にロボット達が修復を行っていた。ローズは下まで行ってようやく海の下にも塔が続いていることに気づいた。マザーに教えてもらった通りの船が塔の外に並んで浮かんでいる。それは広い海にこぎ出すにはあまりにも小さいような気がした。
マザーに持ち運べる灯りと食料を出してもらい、しばしの別れを告げる。マザーは数日の間の天気が悪くないことや、船をこぎ出せばいい方角を教えてくれた。
ローズはパースの住む塔に向かって船を出した。三人くらいしか乗れないような小さなボートだ。オールを持ち、ゆっくりと静かな海面を漕いでいった。
初めて塔の外に出た。
塔から離れるにつれて風が強くなり、ローズの漕ぐ力は弱く、波に翻弄されながら心細さと戦う。マザーが何も答えてくれない世界は不安がいっぱいだ。
すぐ近くに見える塔なのになかなか近づけない。ぐったりしながらオールを持つ手を止めて、ローズは波に翻弄される小船の中で休んだ。
……塔を出ない方がよかったのかしら。
パースは私に会いたくないかもしれない。彼のことを全然知らないし、会ってどうすればいいかも分からない。
塔の外観が同じだからといって、中も同じとは限らないのだ。メインコンピュータが存在していなければ、パースのいる階まで登る力も出ないかもしれない。
「……?」
不意に声が聞こえた気がして、ローズは顔を上げた。すぐ傍に、パースの住む塔が見える。その開いた塔の入り口に、黒髪の男の人が佇んでいた。
「ローズ……?」
「パースなの……?」
初めて彼の声を聞いた。
ローズよりずっと低い声。もちろんマザーの声とも全く違う。
慌てて立ち上がろうとしたせいで船はぐらりと揺れた。
「きゃあっ」
視界がぐらりと反転したと思ったら、ローズはザブンと海の中に落ちていた。
冷たくて息が出来なくて、方向も分からず、ローズはパニックに陥った。泳ぎ方など知るはずもない。
海の中は深く、いくつもの建物が沈んでいるのが見えた。昔は確かに存在していた都市だ。
口からこぼれる泡に、もしかしたら死ぬかもしれないと思う。空気がないと人は死ぬとマザーが言っていたのだ。死の事は愛より分からない。
誰かに抱きかかえられてローズは海面に顔を出すことが出来た。
暖かい。
パースが海面に浮かぶ何かをローズに渡してくれる。それに掴まってようやくローズは息を吐いた。
「ありがとう……」
「ローズ、泳いだことがないのか?」
「塔を出たの、初めてなの」
初めて間近で見たパースの顔は、ローズの想像とは少し違っていた。肌も日に焼けていて、寒い海の中なのにパースの体温で暖かい。
「あなたに会いたくて」
ローズの目から海水より温かい滴がポロポロとこぼれ落ちた。本で読んだ通りだ。愛とは溺れるものらしい。
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