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お嬢様の舞踏会
(あと、もう少し……)
殿下のわたくしを社交界から追放する為の口上が終わり、退場できるまで、あと少し。
もう少しで殿下がわたくしに引導を渡す。高らかに婚約を破棄し、契約書を破り捨てる。
だから。
(今倒れるわけにはいかない)
寝不足のせいか、朝からいつもより重いように感じていたわたくしの体は、今限界に達していた。
体調が悪いことに気がついたのは、ドレスの着付けをしている最中だ。妙に寒くて肌をすり合わせた時に、メイドが異変に気づいてくれた。
こんなタイミングで欠席したら、これ以上何を言われるか分からないから、無理に出席したけれど……。
今日は辞退したほうが良かったかもしれない。
会場は薄寒く、人の話し声や人の多さで、頭がひび割れそうだ。
ふぅ、と密かについた吐息は、婚約破棄の憂いとして見てくださるかしら。なんて目線を上げると、殿下は勝ち誇ったように口元を歪めていた。
向けられた取り繕いもしない悪意に、一瞬体調のことも忘れて眉を顰めた。
瞬間、視界が歪む。
「――! っ」
喉の奥から何かが迫り出してくるような感覚に襲われ、咄嗟に閉じた扇で口元を押さえた。
次いで頭も更に痛んでくる。
どうやら、殿下の御言葉が終わるまで、なんて悠長なことは言っていられないらしい。
膝の力が抜けそうなのを堪え、憂いを顔に出さないように気を付けて、ロゼリアは【侯爵令嬢 ロゼリア・カリーツェ】の面を被り直した。
最後の力を振り絞って顎を上げ、前を見据える。
(さあ、笑え。この熱を力にして、高らかに!)
執事が求めている侯爵令嬢は、こんな陳腐な王子相手にも、ましてや自分の身勝手な体になんて負けない。
彼の隣に立つには、これくらい平然と成し遂げなくては。
そう想うと、自然と自分のするべき事は分かってきた。
ふふっ、と熱に浮かされたような笑みを意識して浮かべてみる。
こんな注目の浴びた中、笑うのは正気じゃないほうが余程楽だ。
殿下の言葉を押し退け、しかし周りに不敬と言われないように高圧的に――いっそ女王様と揶揄できるような声が出た。
「あら、殿下。でしたらわたくしは失礼しますわ」
「は、」
「わたくしのことをお嫌いなのでしょう。だったらそちらの方と一緒になればよろしいのです。まあ最も――」
貴族の最低限の義務すら遂行できない方に、王など務まりませんが。そのような意味を込めて一瞥する。
「わたくしはこの滅びの輪から抜けさせて頂きますわ」
必死に、それでも悟られないように綺麗なカーテシーをし、扇を広げて歩く。
外まで、3歩、2歩、1歩……気の利いた衛兵が扉を開け、外の空気が会場中に広がった。
冷たく乾いた冬の空気だ。
もう一度微笑んで軽く礼をすると、衛兵は扉を閉めた。
「――っ、ぁ」
力が抜けて、へたりこむ前に辛うじて壁に寄りかかった。
頭を押さえ、冷たい空気を少しでも入れようとしたため、髪はもうぼさぼさだ。
誰もいない、否、来れないからこそ出来る所作だった。
さっきの言動の間に吐き気は収まったが、今度は途轍もない寒気を感じる。
誰も居ず、かつ頭の冷やせる裏庭園に近い扉から出たが、間違いだったかもしれない。
(悪役令嬢が卒倒なんて、柄でもない――)
こんな役割の者に近づきたい人なんて、例え使用人でも居ないだろう。
発見された時にはこの世のものではないかもしれない。
――だから、倒れる直後、懐かしい温もりが自分を包んだなんて、夢だったに違いないのだ。
***
「お嬢様、起きてください」
「――んん」
懐かしい声が聞こえて微かに目を開ける。
「ヴァン? もう、すこしねかせて……」
そう言って再び布団に包まる。
そして僅かに間を開けてから、ん? と首を傾げた。
いつもならここで布団を取って、ダメですよ、遅刻します、と悪戯気に言われるのだ。
なのに、どうしたことだろう。何も返事がないなんて……。
ほんの少しだけ布団から顔を出すと、ヴァンは泣きそうな顔をしていた。
思わず頬に手を伸ばすと、手を引っ張られてそのまま抱き締められる。
突然の行動だが、しかし――何処か焦燥感に駆られているヴァンの背中に、取り敢えず手を回してゆっくりと撫でる。
短い間そうしていると、ぽつり、ぽつりとヴァンは声を漏らし始めた。
その掠れたテノールの音は、いつもより数段低く、怖いほどに淡々としていた。
聞いたことのないその声に、わたくしは肩を小さく揺らしてしまう。
「――お嬢様がどこかへ行ってしまわれるかと思いました」
「何言っているの。わたくしはちゃんとここに……」
いるわ、と言おうとしてようやくわたくしは現状に気付いた。
(ああ、わたくし、倒れたのね。だからこんなにもヴァンが取り乱して……)
「大丈夫よ」
ゆっくり、ゆっくり背中を撫でて、ヴァンは漸く腕の力を緩めた。
立ち上がり支度をしようとすると、再び後ろから抱きしめられる。
まるで手加減のされていないそれは、少し苦しくて。
でもわたくしの存在を確かめるように、肩に顔を埋められると、何も声が出せなかった。
腕の力が何度か強まったり、弱まったりして葛藤するように抱き締められ、次に見たのはもう、いつものヴァンの顔だった。
「お嬢様、お着換えください。そこから朝食といたしましょう」
「もとからそのつもりよ。貴方が邪魔しただけで」
おや、そうでしたという含み笑いをし、ヴァンは出ていった。
跡も残らないような軽い口づけをされた、首元をさらりと撫でる。
きっと親愛の情が籠もっているだろうそれに、耳が赤くなった気がしたのは、気のせいだろう。
***
王宮の一角、裏庭園とも呼ばれる場所は、宮の者を取り込みさえすれば、いとも簡単に潜り込めて、かつ見つかりにくい。
忍び込むにはうってつけの場所だ。
俺は音を立てないようにそこの植木にもたれかかり、侵入の為に借りてきた騎士団の制服を緩めた。
堅苦しい服に漸く開放されると、珍しく手入れがしてあったのか、赤いバラの香りがふわりと舞って揺らいで消える。
気高く、美しく、それでいて儚い紅花。
「薔薇、か」
朝のお嬢様を思い出し、ふ、と笑みが溢れた。
欲求のままに一つの花弁を撫でると、サラリとした感覚が指先に伝わる。
彼女のことを想ったからだろうか。
木の影の先から見えた会場の扉から出てきた女性が、お嬢様のように見えた。
この時間帯は、お嬢様はまだ、婚約者とファーストダンスを踊っているはずなのに。
「――っ、ぁ」
刹那、ぐったりと壁に寄りかかった女性は、ふっと力尽きるように重心を前に傾けた。
咄嗟に駆け寄って支えると、既視感がある。
薔薇のように美しく、小動物のようにか弱いその令嬢は。
「……――お嬢様?」
様子がおかしい。頬は上気しているのに、顔全体がどことなく青白い。
額を当てて熱を確認すると、かなり熱い。こんな事は今まで無かった。
頭が、痛い。喉が干上がりそうだ。
俺は、どうしたらいい?
……そこからはよく覚えていない。
ただ気づいたらお嬢様の部屋にいて、お嬢様が横たわっているベットの脇で椅子に座って放心していた。
もう夜は越したらしく、部屋に日の光が差す。
「お嬢様、起きてください」
いつもみたいに、しかし揺さぶらずに静かに言う。
これで、起きるはずがない。
頭では分かっているのに、言わずには入れなかった。
しかしその直後、可愛らしい彼女の声が響いた。
あんなに魘されていたのが嘘のように軽やかな、いつも通りの声だ。
呆然として声の出ない俺に、お嬢様はクエスチョンマークを浮かべて寝ぼけながらも少しだけ布団から頭を出す。
思わず、彼女が俺の頬に伸ばしてきた手を取って抱き締める。
暫くすると我に返り、そっと離したが、また耐えられなくなって抱き締めてしまった。
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