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瞼の上の憧憬のキス1
携帯のメールで、映画の予定が潰れた。
マフラーを首に回して、家を出る直前に。
わざわざ人が家を出る時間まで計算してドタキャンすんじゃねえよ、このクソボケ。
いちいちアホのいうことを聞くのもムカつくので、そのまま家を出た。
足で鉄製のドアを蹴飛ばす。コンクリートの階段にドアを閉める音が反響する。
映画、あいつの趣味に合わせた、くっだらねえアクション映画、しかも大画面でという御要望におこたえして、新宿のコマ劇まで出る予定で。階段を二段抜かしで降りながら、空を蹴る。
あのアホとの約束は、ほとんどうまくいったことがない。ドタキャンや時間に遅れるのは当たり前、下手すると日にちまでまちがって覚えてやがる。時間に遅れるのは死ぬほど厭なおれが、わざわざ一時間遅らせて待ちあわせの場所に着くと、あいつはさらに三十分遅れてくる。
なのにあいつはおれを映画だ飲みだと連れ回すのをやめない。
おれもあいつの誘いを断らない。
石畳の歩道を駅まで走った。おれのいきおいに、べビーカーをひいた母親が目を丸くしてふりかえる。
180オーバーの男が死にそうな顔で爆走してりゃ当然か。ドレッドみたいな髪(地毛だ)がうしろに流れたまま固まっている。短いとアフロになってしまうので肩まで伸ばしている。こんなガチガチのくせ毛を女の髪とまちがうやつの気が知れない。
顔にカッと血が上る。瞼にのこるかすかな感触を、指でひねりつぶす。
あいつのことなんか1ミリも考えていたくない。
駅まで走ると、心臓がバクバクいっていた。肩で息をしながら、切符を買う。手でパンクした髪をなでつけて、改札をくぐる。
映画の前売りのチケット、あいつが持ってるんだよな。階段をのぼりながら思い出す。金はまだ払ってない。だれが払うもんか。あいつにふりまわされる自分が死ぬほど気に食わない。ホモでもないのに。あいつは田舎に彼女がいるのに。
今年、大学ではじめてあいつと会ったとき、おれは厭な予感がした。中学と高校がおなじで最悪にヤなやつがいた。そいつのスカした優等生面にそっくりだった。
すいた電車に乗って、はしっこの席に坐る。危険物扱いには慣れてるから、はしっこが定位置になっている。
これでも見た目はずいぶんおとなしくなったほうだ。高校のときは鼻ピアスに下駄履きで学校へ行って、職務質問七十九回の新記録を打ち立てた。警官に顔覚えられてからは記録を更新できなかったけど。派手めな外見のわりには、飲酒も喫煙もヤクもできない虚弱体質だし。
あいつはむちゃくちゃ酒が強い。強いやつは酒を飲めないやつがいるということを認めない。飲みにつれていかれて何度潰されたことか。そしてあいつを酔い潰そうと何度無駄な努力をくりかえしたことか。
酎ハイの焼酎のかわりにウォッカを飲ませた。さすがのあいつも真っ赤になっていたが、それでもまともに歩ける程度の酔いだった。こうなったらスピリタスで潰すしかない。キッチンの凶器を思い出す。でも職質七十九回のおれでもまだ人は殺したくない。さすがにアルコール九十六パーセントの酒を盛る気にはなれない。
アルコールのツンとした匂いがこみあげてくる。
酒は嫌いだ。ちょっと飲んだだけですぐ真っ赤になる。安上がりなやつだとあいつは嗤う。
ああもう。マフラーに顔をつっこむ。
ガキのころ、好きだった子をいじめてたおれにそっくりだ。そばにいなきゃ不安だし、そばにいれば腹が立つ。気になりすぎてムカつくんだ。向こうはおれなんか気にしてないし。
怒った顔を見ればすこしは嫌いになれると思ったんだ。
でも怒った顔もかわいかった。
でもそれは女の子だからで、野郎を怒らせてもかわいくもなんともないと、財布がカラになるまで飲んでも気づかねえ馬鹿にだれかいってやってくれ。頼むから。
ふかふかしたマフラーの熱で眠くなってきた。ぼやけた視界がマフラーの空色に染まる。そして闇になる。おれは新宿まで眠りこんでいた。
最初にあいつと行った映画は、観ることができなかった。
あいつは三時間たっても来なくて、携帯に何度電話しても出なくて。おれはゲーセンの格ゲーで十九人抜きの自己新記録をつくって――あいつは三十九度の熱を出してダウンしたといっていた。熱を出した次の日、けろりとした顔で。
あいつはそれを学食の定食で埋め合わせたけど、おれは二度とこいつとどこかへ行くもんかと思っていた。
飲み会の席で、あいつに謝られるまでは。
「ごめん」
熱を帯びた顔つきで、あいつはおれに何度もくりかえした。
「ほんとにごめん」
奥二重のするどい目のふちが、不安定に揺らいでいた。
ああまただ、とおれは妙にうろたえてしまった。
まわりは一気飲みのビールにわさびなんか入れて馬鹿やってて、深刻な雰囲気のおれたちにはまったく気づかなかった。
こいつは酒が入らないと本音を吐かないやつなんだろう。
だからおれは飲めもしないくせに何度も飲み会に出るはめになる。
新宿の東口の改札を出て、歌舞伎町までぶらぶら歩く。
カフェで本日のコーヒーを買う。プラスチックの飲み口が熱い。虚弱だというのにカフェイン中毒、胃を気にしながらコーヒーを飲む。
さめた上澄みをすすりながら、横断歩道を渡っていく。ゴミみたいにたくさん人がいる街だ。田舎じゃ脱走した犬まで知りあいだが、ここではおれのことなんかだれも知らない。だから鼻のピアスはやめた。女の子が寄ってこないのはビビられてるせいだと知ったからだ。そんなにおれ怖いのか? と聞いたら、あいつは膝を打って喜んでた。田舎じゃ葬式のときでも笑ってるやつだといわれていたのに。笑ってるんじゃなくて地なんだけどさ。
おれは母親に似たせいか、わりと凹凸のある顔立ちをしている。頭小さいし。鼻が高いから鼻ピも似合ってたのに、高校ではインド人といわれていた。顔黒くないのにな。
ガキのころはわりともてたんだけど、いまはぜんぜんもてない。
――彼女ほしいなあ。
白い息をついて、飲み終わったカップをゴミ箱に叩きこむ。
新宿コマ劇場の広場は磁石みたいにくっついた奴等で埋まっていた。映画館の看板を見渡して、いちばんでかい映画館の入口で、観るはずだった映画のチケットを買う。となりの空白はあえて気にしない。はじめからそんなやついなかったんだきっと。真後ろの中央の席にコートを置いて、パンフレットを買いにいく。
席にもどってきたら、真ん前にすわった男と女が磁石みたいにくっついていた。見せつけんじゃねーよと泣きながらパンフレットをひらく。
椅子の手すりに頬杖をついて、無意識に瞼を指で撫でていた。あいつの感触を指で消す。なにが悲しくて野郎なんかにハマっているんだろう。あいつも、おれも。
親友というわけでもない。大学ではべつのグループに入っている。あいつは無愛想なくせに女の子に人気があって、田舎の大学に進学した彼女を女よけの口実に使っている。
小中と生徒会の役員なんかやっていたせいか、当時はおれも女の子の受けがいいほうだった。
相手の好意に気づくとうれしくて盛り上がるけど、いったんつきあいはじめると相手のどこが好きなのかだんだんわからなくなってくる。
そんな自分のヤバさに気づいてそういうことをやめたのは、高一の冬のことだった。
長髪にしたのも鼻にピアスの穴をあけたのもそのころだ。
まわりのダチは変わらなかったけど、寄ってくるのは警察だけになってしまった。
ブザーが鳴って、照明が暗くなってきた。まえの二人はくっついたまま動かない。いい根性だ。おれはパンフレットを脇に置くと、ぼんやりと宣伝を見ながら頬杖をついた。
映画が終わって――パトカーが束になって積み上がったシーンしか覚えてない――映画館を出ると、おれはすぐさま脇のファーストフードへ入っていった。
コーヒーと黒ごまのプリンを片手に、せまい階段をのぼっていく。
二階の席は混んでいて、おれは部屋の奥へ歩いていきながら空席をさがした。
うあ。
なぜいる。
煙草をかかげたままピキーンと凍りついているあいつと、トレイ片手に立ち止まってしまったおれを、あいつの向かいにすわっている女の子がふりかえって眺めている。知らない顔だ。さらっとしたショートの前髪を、シルバーのピンでとめている。眉を細く描いて、うすい色の口紅を塗った、あっさりめの顔立ち。
「コウの大学のひと?」
低い声。媚びない顔で、女の子はども、とおれに首をかくんと下げた。
「コウがいつもお世話になってます」
「ども」
おれを見ても怖がらない目が気に入った。女の子はこっちどうぞ、とあいつのトレイと灰皿を隅によける。断る理由が見つからなくて、おれはしかたなくあいつのとなりに坐った。灰皿に煙草を押し付けている右手を見る。煙草はまったく減っていない。
「菱川君の彼女?」
「元」
女の子はさらりといって、仁志さおりと名乗った。仁志さんのトレイには中身が空になったポテトの包み紙とドリンクが置かれている。
「石森っす。名前は大きな志で大志」
仁志さんはすでに知っている顔で、
「鼻ピアスしてた子?」
「元ね」
「高校それで行ってたんでしょ? なにも言われなかった?」
「進学校だから勉強してりゃなにもいわれなかったの」
「親うるさくない?」
「いわれたことないなァ……痛そうとはいわれたけど」
「どういう親だ」
長めの黒髪をぐしゃぐしゃにして、あいつが壁に聞いている。奥二重のするどい目、そげた頬と、うすくて大きめの唇。いつも顔色はよくない。スカした、血が青そうなやつだ。灰色のフリースの襟元に、ドッグタグの鎖が見える。KOU HISHIKAWA。コウは考のコウだ。
「信頼されてっから。舐められてるともいうけどなー」
ふう、と肩をおとしてためいきをついてみる。
田舎じゃおれの鼻ピなど屁とも思われていなかった。ガキのころから近所の人間はみんな知りあい、幼稚園の運動会でウンコたれた過去まで知っている。そんなとこで粋がっても意味がないせいか、おれの町には不良がいない。
「同じ映画観てたのかもね」
仁志さんがおれのパンフに気づいてつぶやく。
「いっしょの回にいたかもな」
「コウが彼女といっしょに観るっていってたから、紹介してって言ったんだけど」
「彼女とは言ってない」
仁志さんは頬杖をついてななめにあいつを見上げた。
「ガード固くて逃げられちゃった。せっかく話のネタにしようと思ったのに」
俺的にも突っ込みどころ満載なネタだ。
「あいかわらずアクションしか観ないんだね。嫌いなのに」
「るせえよ」
壁につぶやいてもだれもいませんけど。
「嫌い? じゃ、なんで」
「恋愛物とか、泣けるのがダメなんだよね」
「さおり」
「弱いの」
はじめて仁志さんが口元を引き結んで笑う。机にひじをついて、あいつはがっくりと撃沈している。
「予定潰して、悪いことしちゃったな。同じ大学の人? 知ってる?」
「仁志さん似てますよ。ちっちゃくて、髪短くて、猫っぽいつうか」
「ふうん」
仁志さんがストローをくわえながらこくんとうなづく。
「お前ら止めろ」
人をネタにすんな、とあいつはポテトを食い散らかしながらうなっている。元彼女とおれ。微妙な状態だ。
「菱川君に会いにきたの?」
「そう。あと別の友達と」
「別れたのに仲いいんだ」
「きらいで別れたわけじゃないから」
となりであいつが苛々しているのがわかる。地雷原につっこんでいくおれを止めたくてしょうがないのがわかる。
「ふられたの?」
「ふったの」
淡々と仁志さんはおれをまっすぐ見据えてつぶやいた。
「はなれてもつづく関係とは思えなかったから」
となりでアホが額を押さえている。クールな人だ。こいつが扱えるような女じゃない。
「行くぞ」
ひとりで勝手にトレイを片づけて、あいつが席を立つ。おれはまだなにも手をつけていない。席を立って、アホをこの場から逃がしてやる。
「じゃあね」
仁志さんがひらりと手をあげる。感情と表情がきっかり同じ、愛想笑いをしない女の子はけっこう好きだ。おれは仁志さんにだけ笑って手をふった。
あいつがいなくなった空白にすわりなおして、パンフレットをひらく。文字を追うが、文章が頭に入らない。
選択肢が思い浮かぶ。
(1)はなれてもつづけられるほど好きではなかった。
(2)はなれてもつづけられない原因があった。
(2)のはなれてもつづけられない原因というのは、わかる気がする。スカしているように見えて、寂しがりなとこがあるから。そういうのがわかってて、仁志さんがいまの彼女に会いたがる気持ちっていうのは、
(1)心配
(2)好奇心
(3)嫉妬
のどれなんだろう。ひとの心は簡単に統計が取れないからわからない。
階段にあいつの影が消えるのが怖かった。
これから、ふたりはどうするんだろう、と、思った。
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