瞼の上の憧憬のキス2

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瞼の上の憧憬のキス2

「石森」  黒ゴマのプリンの底をこそげ取っていると、あいつの低い声がふってきた。  とがった鼻の頭だけが赤い。笑える。  シシシと笑うと、あいつは狂人でも見るような顔つきで向かいの椅子に腰を下ろした。 「馬鹿映画だったな」  プリンのカップを置いて、場を繋いでやる。不機嫌な男は横を向いて髪をひっぱっていたが、ジーンズのポケットから煙草を一本取りだした。思い直したように、煙草を元に戻す。灰皿がないことに気づいたからだ。 「ビデオでよかった、あんなの」  そっけなくいって、あいつは爪の甘皮を剥いでいる。痛そうだよ。よくやってるけど。 「どっか行ってたの?」 「アクアラインにドライブ」 「車?」  車もってるなんて知らなかった。おれはパンフを閉じると、 「送って」  媚びるように笑った。レンタカーだからもう返した、という答えに肩を落とす。使えんやつだのう。 「鎌田に借りればよかったのに」 「鎌田の車はミッションだから運転できない」 「オートマ限定?」  煙草をもてあそびながらあいつが壁にうなずく。  なんであんたが戻ってきたのか。なんでおれは映画を三度ドタキャンされても怒らないのか。  ほんとに知りたいことはなにひとついってない。 「そろそろ帰るよ」  トレイをもっておれは立ち上がった。  駅の切符売場で路線図を見上げながら、あいつは時間があるかと聞いてきた。 「ないよ」  切符を二枚買って、一枚を手に押しこむ。あいつは目を翳らせて切符の行き先を見ている。  そうして自動改札を通るおれのうしろに黙ってついてくる。  耳のうしろにかすかな熱を感じる。  地下のホームへおりていくあいだ、あいつはひとことも口を利かなかった。  新宿始発の電車の座席を確保して、すみっこに並んで坐る。  肩が触れないように、あいつは左手でもう片方の腕をつかんでいる。楽にすればいいのにとおれはぼんやりと思う。  こいつのほうが身長は五センチくらい低いのに、肩がならぶ位置はほとんど変わらないのがくやしい。  電車が走りだした。目の前には人の壁、熱気で頭がぼんやりしてくる。  カタンカタンとレールの音だけが、規則的にひびいている。  いくつかの駅を通りすぎると、熱気で眠くなってきた。  肩によりかかって、寝たふりをする。肩に頭を寄せると、耳元で脈が鳴るのが聞こえる。マフラーに埋まった頬が熱を持つ。  狸寝入りと無視と嘘。こいつとつきあうようになってからうまくなったことだ。  かたまっている肩の感触と、耳の奥で速くなる脈拍と。  目を閉じると、世界はそれだけになってしまう。  講義であいつの姿を見ても、おれは知らないふりをする。  あいつも気づかない顔でおれの後ろの席に坐る。どこに坐っているかは知らない。ときどき耳のうしろにふわりとかすかな熱を感じる。気のせいだ。何度もそう言い聞かせる。  食堂でいっしょの席になっても、あいつの滞在時間は少ない。とっとと飯を食って、逃げるように席を立つ。  煙草の吸い殻の長さを測るのがくせになった。統計を取ればほかのやつといるときの二倍、吸い殻が長い。おれといるのがそんなに厭なのか。酒が入らなければ、まともに話もしない。そんな関係のおれたちがつるんでいると、友人はときどき妙な顔をする。  おれのアパートに帰りついたときには、あたりは真っ暗になっていた。  コンビニで適当に夕食と酒のつまみを買って、おれたちは適当にちらかったおれの部屋に入った。  酒のつまみを買ってきたのは、襲われないようにとっととスピリタスで潰してしまおうという魂胆からだった。おれが自分用に買ったのは、カシスソーダとスプライトだった。酒量がカシスソーダの瓶半分というのは……情けなさすぎる……  台所からスピリタスとコーラを持ってくると、あいつはぎょっとした顔で弁当のラップをはがす手を止めた。  やべ、知ってたか。 「貰い物だけど、おれじゃ飲めないからさ」  スピリタスの封をときながら、あいつは真顔でおれを脅しつける。 「お前は飲むなよ。死ぬぞ」  おれはグラスでカシスソーダのスプライト割りなんかをつくってみた。うすくてきれいな色だけど、やっぱり情けなさすぎる。  あいつはグラスの底にすこしだけスピリタスを注ぐと、顔をしかめてそれを口元へもっていった。液体にふれた瞬間、ゲッという顔をする。 「しびれる」  唇を舐めて、鼻の頭にしわを寄せている。ほんとに飲み物なんですか、それは…… 「消毒用アルコール飲んでるのと一緒だな」 「飲んだことあるの?」 「飲むか、馬鹿」  するどい目で、グラスにコーラを注いでいる。ガンつけるときしか見ないっていうのも。まあいいけど。  焼肉弁当の肉を肴にして、あいつはコーラでうすめたスピリタスをかっくらっていた。胃が荒れそうな飲み方だけど、こいつが吐いているところは見たことがない。おれはカシスソーダ一本で吐くのに。  食事が終わると、おれはぼんやりとベッドのふちにもたれかかった。酔いが回って、頭がぼうっとしてくる。 「テレビでもつける?」 「いいよ」  ふたりともテレビは観ない。こいつはビデオ専門、おれはゲーム専門だからだ。ひとりでも十分いそがしいから、一人暮らしで寂しいとは思わないところも似ている。  ちょっと穏やかな目になって、あいつはつまみの袋をあけている。いつもこんな顔をしていればいいのにと思う。  黙っていても許されるような空気だったので、天井を見上げながらスプライト割りを飲んでいた。  瞼が重くなってベッドにもたれかかっていると、目を閉じた視界にサッと翳が走った。  あいつがコップを手に無表情で立っている。  ヤバいと思った瞬間、胸元にコップの液体が落ちてきた。 「つめて……」  胸からじわりと冷気がわきあがる。アルコールの蒸発する匂いに、頭がクラクラする。  おれの肩をつかんで屈みこむと、あいつはおれの目の前に百円ライターをつきつけた。 「火気厳禁」  奥二重の目がまっすぐにおれをにらんでいる。アルコールランプなんてあるもんな。そんなことを悠長に考える。  実行するつもりのない脅迫をされても緊張感が出ない。 「なんでお前、俺につきあってるんだ?」  胸がスウスウして気持ち悪い。蒸発するアルコールにやられて、視界がかすんでくる。  地雷を踏まないようにしてたのに。  でも、これ以上もたないのもわかっていた。わかってたから、こいつを家につれてきたんだ。  顔が赤くなって、まともにこいつの顔を見ていられない。身体がぐにゃぐにゃになって、肩がかくんと揺れた。  強い腕にしめつけられて、背骨がぐきっと歪んだ。 「いたいいたいいたい!」 「うるさい」  力がゆるんで、おれはベッドにもたれかかった。殺す気かいおれを。心臓がバクバクいっている。ああああ。叫びたい気分だ。  だからおれは女じゃないっつうのに。勘違いしてるわけじゃないだろうこいつは、おれの頭に額をのせて抱きしめてくる。  意識があるときにはじめておれに触ったな。胸が堅い。肩に鼻を寄せると、洗濯物の洗剤の匂いがした。  マジでヤバい。なんか吸い取ってるだろお前。身体に力が入らなくて、頭の先が、あいつの胸につく。  アルコールが蒸発している胸はつめたくて、首にまわされて耳のうしろに潜りこんでいる手は熱い。  めまいを感じてうなだれると、おれはきつそうなジーンズの前に気づいた。  なんでおれで勃つの。  聞いたらきっと聞きかえされる。  なんでおれは逃げないのか。 「アクアラインって行ったことないんだよね」  この後に及んでいうことがこれか、おれ。 「海しかないよ、あそこは」  頭のうしろから直接言葉がひびいてくる。 「海ほたる饅頭くらい買ってこいよ」 「買った」 「うそ」 「嘘」  どうでもいいけど、こいつの冗談はつまらない。  身体がふわふわしていて、ここで襲われたらどうしようと思ったけど、身体が動かない。  動きたくなかった。 「海に虹がかかってた」  ぽつりといわれて、ああ、とおれは身体を離して顔を上げた。 「午前中こっちも雨だった」  目を合わせると、ヤバいものでも見たように目をそらされる。なんだかな。 「左側の土台だけでぷつっと切れて、右側はなかった。降りだしそうな天気で、煙みたいな雲が見えて」  ぼんやりと床をみながらつぶやいている。とうとうこいつも壊れたなと思って、おれは体勢を立て直す。 「あんな虹もあるんだな」 「氷水、いる?」 「なんで?」  子供をのぞきこむような顔で聞かれる。うわ。こいつが溶けてる顔なんてはじめて見た。 「冷やすと萎える」  ふっと表情が消える。喉からじわりと苦い感じがわきあがって、胸が苦しくなる。  あいつはおれから手をはなして黙りこんだ。うつむいて、表情をかくしてうなずく。  おれはふわふわした床を踏んで冷蔵庫へいくと、冷凍庫の氷をぜんぶ取りだした。 「風呂借りる」  うつむいたままおれの手から氷のケースを取ると、あいつはユニットバスへ入っていった。  水音を遠くに聞きながら、畳にそのまま寝転がる。シャワーの水音が、耳に刺さる。期待させてはいけなかったと溜息をつく。  アルコールが蒸発する気化熱がシャツを冷やしていく。シャツを脱ぐ気になれなくて、おれは畳に胸をすりつけた。胸を冷やす冷気が収まる。  酔ってぼんやりとした脳裏に、海にかかる虹を思い浮かべた。  虹なんてもう何年も見ていない。 「あーあ」  首筋に手をかざす。ふわりとあたたかい空気を感じる。あいつの指のあとを辿ってみる。  バレてしまった。  ずっとまえからバレていたのかもしれないけど。  もしおれたちが男と女かホモ同士だったら、何ヶ月もまえにやっていただろう。  でも、おれはあいつを抱く気はなかったし、あいつに抱かれる気もなかった。だから、どうしようもなかったのだ。
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