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「いやー、疲れた。もう若くないねー」
僕は答えなかった。まだ時計をはめていない右手首には、袖口から薄い傷跡が覗いている。
しばらく続いた沈黙を、閑のかすかな声が破る。
「……気づいたよな?」
僕は何も、答えられなかった。
「お前にだけは、知られたくなかったんだけどなぁ」
そうさみしげに笑う閑は僕が初めて見る表情をしていて、僕たちが出会ってから経った年月を、互いが年をとったことを感じずにいられなかった。
また、目の奥が熱くなる。
「ルセットを作ればいい。そういうシェフはたくさんいる」
閑が僕を見る目は、静かだ。それが嫌で僕は言葉を続ける。
「どこかで一緒に、小さなレストランをやればいい。
一日数組で、調理はアシスタントにやらせて」
僕の言葉を閑が遮る。
「俺は、自分でナイフを握れないなら、料理人を名乗りたくない」
「肩書きなんて何だっていい!
閑の料理がいいんだ、それを遠也に作らせたっていいじゃないか」
返ってきたのは静かな答えだった。
「あいつには、あいつの料理があるのに?」
わかっている。今日のことは、店のためにしたことで、閑は望んで厨房に立った訳ではない。
これから立つつもりも、もう二度と無い。
無理だとわかっていても、口に出してしまった。
気づいてしまったことを、知ってしまったことを打ち消したくて。
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