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「岸川農園さん、たまーにそういうおまけとかくれるの助かるよなー。
まかないに使わせてもらったりとかもさ。
あと、たまに配達に来るさつきちゃんかわいいし」
さつきちゃんというのは、岸川農園の娘さんで、今年農大を卒業し、実家の農園を大きくしようと頑張っている跡取り娘だ。
閑の言葉に僕も頷く。
「かわいいし、感じいい子だよね」
「あー俺さつきちゃんが毎日配達に来てくれるんだったら厨房入るのになぁ」
「閑には、無理でしょ」
すっと、空気が冷えた。
「あー、そういうこと言っちゃう?」
まずい、と思って僕は「遠也に伝えてくる」と閑に背を向けた。
「いーよ、自分で行く」
閑が僕の背後で立ち上がり、僕の肩に腕を回した。
そう背の変わらない閑の顔が横にある。
その表情は笑顔で、肩に回された腕も友人相手にするような気安いものなのに、耳元で囁かれたのは、かすかで、ひどく冷たい声だった。
「あんまり、煽んないで?」
肩に回された腕は僕の背をするりと撫でてから離れて、彼は先ほどの言葉が嘘だったような明るい声を出す。
「遠也に徹夜無理だから明日にしてーって言ってくる」
ひらひらと手を振って、閑は狭い事務室を出た。
拳を握りしめて、がっ、と額に当てた。
彼と僕の間にある、過去のわだかまりを蒸し返したくてああいう言い方をしたわけじゃない。
それとも、そういう気持ちが自分のどこかにあったのだろうか。
なんにせよ耐えられないのは、彼の冷たい声と手のひらが触れた、耳と背中が、甘く疼くような熱を持っていることだった。
「くそっ」
絞り出すような悪態を一つつくと、気持ちを落ち着けるために、僕は事務室を出てカトラリーをもう一度磨き始めた。
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