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ぐったりとしたまま閉店後に彩音とホールの掃除を終え、水を飲もうと厨房のドアを開けようとしたところで、大きな音がした。
驚きのあまり固まってしまい、わずかなドアの隙間から、彼らをのぞき見るような格好になってしまう。
ケンシンが、遠也の胸ぐらをつかんでいた。
聞こえた大きな音は、ボウルを取り落としたのだろう。
まだ、くわんくわんと、転がる音が響いていた。
「遠也、いくら調理中だろうが、メートルとか他の奴らから声かけられたら答えろ。経験浅かろうが、お前がシェフでトップだろうが。それだけは絶対にやれ」
「集中しとって……」
「いいか、客に出す料理作ってんだよ。
料理が完成したらそれで終わりじゃねぇ。完成した料理を客が食べてやっと俺たちの仕事が出来上がるんだ。
喰うためのもの作ってんだよ。
飾り立ててる間に冷めたり、待ちくたびれて客が喰う気なくしたら意味ねぇのわかんだろ。
メートルはこっちから見えない客席見て指示出してんだ。二度と無視はすんな。次やったら殺すぞ」
「……だって、他に出来ることないやないですか」
長身のケンシンを、遠也が見上げる。
「クォリティ上げるくらいしか、出来んでしょ、俺には。
それだけでお客がついてくるような名前があるシェフでもないし、そもそも東京出てきてまだ三年やし、呼べるような知り合いもおらんし、出来ることなんて、こんくらいしか……」
僕の胸に苦い思いが広がる。
遠也も、店の現状をなんとかしたい思いがあったのだ。
「……だとしても、見た目のクォリティ上げて、味下げてたら意味ねーだろ?」
遠也の言葉を聞いて、ケンシンの声から怒りが抜けた。今度は説くように遠也に言い、胸元をつかんでいた手を離す。
「……はい、すんませんでした」
「次はやんなよ」
うつむいた遠也を見て、僕は厨房の中に入っていけなくて、ドアをそっと閉めて引き返した。
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