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店を閉め、掃除を終わらせた後で、二人がけのテーブルの椅子を一つ引いて腰掛けた。
お客様の目線で汚れた場所がないか確かめると、天井を見上げてため息をついた。
「おつかれー」
オーナーがやってきて、手に持っていた二つのグラスとワインを置くと、僕の向かいに腰掛けた。
視線を脇に逸らす。
足下から天井まで張られたガラスの向こうは小さな庭だ。
すっかり暗くなった時間でも、道路端の街灯や、どこかのビルの窓から白い光が差し込んで、ガラス一つ隔てた向こうの、夏の濃い緑を静かに照らしている。
「よく、こんな所見つけたね」
「んー? 東京都下だしね。
言ってもそんなに広さはないし、駅からも距離あるし。
けど、内見でここだなって思ったから」
「ふーん」
店の場所を決めたり、スタッフを集めたり、僕はそのあたりの経緯は知らない。
この店で一番最後に決まったスタッフが僕だった。
人が揃えばすぐ始められるというわけではないから、動線に関わるテーブルの配置などの確認、サービス業務に関してなど、オープン前から仕事自体はしていたが。
オーナーは僕を真似るようにガラスの向こうを眺め「暑そう」と呟く。
僕は彼がテーブルに置いたワインを見た。
「これ当たり年のじゃん、彩音に怒られるよ」
おそらくセラーから勝手に持ってきたであろうワインで、更に当たり年のものを開けて飲んだりしたら、ソムリエールがどれだけ怒るか目に浮かぶ。
「店のじゃなくて俺が買ったやつ」
そう言うと、ボトルを持ってオープナーをねじ入れてコルクを抜こうとするが、その手つきの覚束なさが嫌で、ボトルを取り上げて線を抜く。
「別に、俺一人で出来たし」
その不満は無視して、グラスにワインを注いでやる。自分のグラスにも注ぎ入れた。
「乾杯しよーぜ」
オーナーの言葉は無視して、グラスに鼻先を近づけて匂いを確かめる。甘い、花のような香りがした。
「何に?」
「ん?」
オーナーがきょとんとした顔でこちらを見る。
「何に乾杯?」
僕はそう尋ねながらも、彼を見返すことはせず、グラスの中かすかに揺らぐワインに目を当てていた。
「開店記念?」
オーナーは疑問符をつけて答えた。
「それは、もうみんなとやっただろ」
スタッフが前にいた店のお客様や、専門学校や修業時代の仲間などを呼んだプレオープンの夜に、みんなで馴染みの店に行って飲んだ。
それに、開店記念はオーナーとメートル二人でやることでもないと思う。
「……お前と飲みたかったから」
今度はそっと呟かれたその言葉に、自分が何を思えば良いかわからない。
いや、正確に言うと、その言葉に何かを思いそうになるのが嫌で、わからないという言葉で押し込めた。
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