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 閑は高校で調理師免許は取っていたけれど、一年間調理師専門学校で西洋料理を学んで、卒業後しばらく日本のレストランで働いてからフランスへ渡った。  僕は卒業後、都内のホテルのフレンチレストランに就職した。  ヒロさんとマダムのビストロに勤め続けたい気持ちもあったが、マダムから、サービスの仕事を続けるなら色々なタイプの店を知っておいた方がいいと諭された。  お互い、その頃は忙しすぎて、たまに連絡を取るだけだった。  それでも僕は、彼の料理を自分が運ぶという、約束とも呼べない言葉が忘れられなくて、閑に「フランスに行く」と言われ、迷わず追いかけてしまった。  閑より遅れての渡仏だったし、手続きも就職も簡単じゃなかったけれど、使えるコネと貯めていたお金と制度とをフルに使って、それでも足りない部分はただただ運がよかったとしか言えないが、なんとか同じ店に入ることができた。  初めてこの部屋のドアを開けたときのことを思い出す。 『隼人』  二人で住む部屋の段取りはすべて閑に任せ、ほとんど身一つでこの部屋に来た。  空港まで迎えに来るという閑の申し出を断って、この部屋のドアが中から開いたときのことを忘れられない。 『本当に隼人だ』  そう言って僕をきつく抱きしめた。  僕も数年ぶりに会った閑に感動していたけれど、頭の中で、抱きついてくるなんてずいぶんヨーロッパにかぶれたものだとか、そんなことを考えて平静を保っていた。  玄関先でずっとそのままでいたから、僕が急かしてやっと離れた。  狭い部屋を案内するのに、ずっと僕の手首を掴んで手を引いているのがなんだかおかしかった。  その夜は、二人で夕食の買い物に行って、彼が道行く人たちと気安く挨拶を交わしていたのを覚えている。  ――マダムに習っていたときは僕の方がずっと、フランス語がうまかったのに。  その夜は、まだ寝具が揃っていないからと、閑のベッドで二人で眠った。  閑はずっと、『本当に隼人だ』と僕がいることを確かめるみたいに手や肩に触れて、じっと見て、眠るときは僕の体に腕を回していた。  変だとか、嫌だとか、そんな風には思わなかった。  驚くほど言葉が上達し、近所の人と親しげに会話する彼が、異国の地でたった一人で、どれだけ頑張ってきたのか、そしてそれがどれだけ孤独だったか、僕はわかる気がしたから。  ――あの頃は毎日新しいことばかりで、めまぐるしかったなぁ。
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