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「君、以前ホテルに勤めてませんでしたか」  僕は笑顔で頷いた。 「はい、今年の春まで勤めておりました」  ゲストは声を立てて笑って、きょとんとしたホストに仕事で利用していたホテルの元スタッフだと説明した。  僕はホストに頭を下げる。差し出がましいことをしてしまったかもしれない。 「安藤さん、いいお店に連れてきて下さってありがとうございます。 こんな嬉しい偶然があると思っていませんでした」  ホストのお客様がほっとした様子の笑顔になって、僕も安心して一度席を離れる。  会計を終わらせ、ゲストがホストに礼を言い「少し待っていてもらえますか?」とゲストに言った。  すると僕の手を握ってぶんぶんと振る。 「君のサービスがまた受けられてよかった。 君のサービスは、ただ受けただけだとあんまり気がつかないんです。 心地がいいけど、サービスを受けてると感じさせないから。 君が辞めてからホテルに行ったら、なんだか物足りなかったですよ」 「ありがとうございます、 砂糖の件は引き継いだつもりだったのですが 行き届かず申し訳ありません」  お客様はまた声を立てて笑うと、胸ポケットに手を伸ばす。 「私、椚木(くぬぎ)と言います」  お客様が名刺をくださった。  僕は丁重にお礼を述べる。  お客様が名刺をくださるのは、サービスを気に入ってくれた時が多い。ありがたい瞬間だ。 椚木様がホストに向き直った。 「おいしかったですし、とっても嬉しい食事でした。 安藤さん、本当にありがとうございます。ごちそうさまでした」  去り際に安藤様も僕に微笑んで「ありがとう」と言って下さった。  僕は頭を下げて二人を見送る。  嬉しかった。  そして、初めて気づいたことがあった。  フランスから帰国した頃、僕はもうレストランでは働かないつもりでいた。  シェフと仕事をするのが、もう難しいと思っていたから。  レストランではなくカフェやラウンジの仕事を探し、ホテルのラウンジに勤めていた。  僕は、ホテルで働いた数年間、もちろん真剣にやっていたけれど、僕の思うサービスの仕事から離れたつもりでいた。  でも、僕はずっと、そこにいたのだ。サービスの仕事の中に。  僕はたった一人でもこの仕事を続けていたという当たり前のことに、たった今まで、気づかなかった。
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