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#8

 二十歳でフランスに渡って、四年半ほど経った頃だった。  お互いに出世して、閑はソーシエ、僕はシェフ・ド・ランになっていた。  彼に比べれば、僕は出世が遅れていたけれど、それでも少しずつ、前に進んでいた。  ある日、夜中帰ってきた閑が、先に部屋で寝た僕を揺り起こした。 「隼人」  余りに真剣な声に、僕は店をクビになるような失敗をしたに違いないと思った。 「……俺、別な店に移ることになるかも」  その言葉で想像が確信に変わって、僕は飛び起きた。 「一緒に謝りに行ってやる。何やったんだ」  閑がぽかんとしていて、今度は僕が閑の肩を揺すった。 「お前には料理しかないだろ。 諦めて別な店に行く前に、まずはできること全部やれよ」 「いや、あの違うんだけど」  寝起きの僕は自分が焦りすぎていたことにようやく気づいたけれど、その後に聞かされた話には、更に驚いた。  僕はベッドの上に身を起こし、閑は僕のベッドに腰掛けていた。私服のままで、帰ってすぐ僕の部屋に来たらしかった。 「実は、新しい店の料理長の打診が来た」 「……二号店、作るのか?」  閑は首を振る。僕らの勤めていた店は、総料理長にかなりの裁量が任されていたが、オーナーが別にいる。  オーナーが新しい店を出すつもりらしかったが、それはどうやら今の店の支店ではなかった。 「オーナーが、ちょっと違うコンセプトで店を作りたくて 誰をシェフにするか考えてて……。 うちのシステムがわかってる人間との方が経営やりやすいっていうのもあったんだろうけど、 グランシェフに、誰かいるかって聞いたらしい。 それで、俺のこと推薦した、って」 「……じゃあ、本決まりじゃないんだな?」  閑が俯く。 「いや、オーナーと給料の話し合いとかすることになったから、 かなり、固まってきてる」  驚いて、しばらく何も言えなかった。  でも内容を飲み込んだら、胸が熱くなってくる。 「すごいな! すごい。閑、おめでとう」  閑が不安からか片手で僕の肩をきつく掴んだ。 「……すげー嬉しいし、受けるつもりだし、頑張ろうと思ってる。 ……っあ、の」  閑は何か言いかけて、ぐっと口をつぐんで僕を見つめる。 「……何人か、うちからもスタッフが移ることになると思う」  肩を掴む手は痛いくらいだったけど、僕は閑と目を合わせて言葉の続きを待った。 「隼人は、覚えてないかもしれないけど……」  僕の肩を掴む閑の手首を、自分の手でぐっと掴んだ。 「忘れるわけないだろ」  意を決したように、閑が口を開いた。 「俺の料理、隼人が運んで」  他の音が、消えたみたいに、僕の中に閑の声だけが届く。 「わかった」  そのときは、何人のスタッフが向こうに移るのか、どう選ばれるのかなんて何もわからなかったけれど、絶対に自分も閑の店に行くのだと思った。  だって、そのために僕はフランスに来たんだ。  乱暴に引き寄せられて、閑にきつく抱きしめられる。  僕も抱き返した。 「閑の料理は、僕が運ぶ」  その夜は、キスもセックスもしなかった。  その言葉一つを、僕らは離さないようにきつく抱きしめていた。
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