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「みんな、もう帰ったんだ?」  厨房やバックヤードの音はこちらに入ってこないとはいえ、なんとなく人気(ひとけ)を感じない。 「『おんじゃく』行った」  おんじゃくは、プレオープンの後にもみんなで飲みに行った小さなお店で、まき乃さんの夫が営んでいる。 「誘われてたんだけど、お前とやんなきゃいけないことあるから行けねーって言っといた」 「やんなきゃいけないことって何」 「これ」  向かいのグラスが持ち上げられる。  目で促されて、自分もグラスを持ち上げた。 「乾杯」 「乾杯」  一口飲み下す。疲れた体の中にゆっくり溶けていくようだった。 「で、結局何に乾杯したの?」  もう一口飲みながら尋ねると、彼はにやっと笑った。 「俺たちの店に」  そう言った彼の目に、一瞬見入ってすぐ逸らす。  俺たちの店、という言葉は、オーナーが自分の知り合いを集めて始めた店だと思えば、別におかしくもない。  でも、それならみんなと店に行ってやれば良かったじゃないかと思う。  視線を上げると、オーナーと目が合う。  自分とは真逆に見える、明るい目をした男。  大村閑(おおむらのどか)。 「隼人、レストラン『le ciel(ル・シエル)』を頼む」 「閑……」  自分が言いかけた言葉をつぐむ。 「何?」  そう問い返されても、言おうとした言葉を言えるわけもなく、 「よろしく」  ごまかすようにもう一度乾杯する。  僕たちのことなど何も知らないように、ぶつかったグラスは澄んだ音を立てた。
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