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――だけど、だけどせめて
好きだとは、言わないで欲しかった。
これでもう二度と会わないだろうという感傷が閑に言わせた言葉は、今まで気づかずに済んだ僕の本心をあっけなく暴いて、これからはもう、異国で一人その気持ちを持て余すしかない。
閑がまだフランスにいるのか、帰国したのかもわからず、僕はしばらく同じ店で働いた。
閑がいなくなって、ごたついたと思ったのは一瞬で、すぐに店は回りだし、お客様は新しいシェフの料理で笑顔になって「おいしい」と言う。
閑がシェフとして働いた時間は、二年にも満たなかった。
表向きは普通に仕事をしていた。
仕事をすることが、僕の支えだったかもしれない。
高校の時から、ずっと一緒だったわけではない。でも、離れている間も、僕は閑の料理を運ぶために仕事をしていた。
そのままフランスで働いていれば、きっともう閑と会うこともなかったのだろう。
それでも、ディレクトールに「引退を考えているから、後任を君にしたい」と言われたとき、僕はもうあの店にはいられないと思った。
一人でディレクトールになって、空っぽの部屋に帰る。
そんなことができる気がしなかった。
僕にとっては、あの店さえももう空っぽの場所だった。
――だって、あの店にはシェフがいなかった。僕のたった一人のシェフ。
その後、僕は27歳で帰国し、ホテルのラウンジで働き始めた。
レストランで働くのは、もう無理かもしれないと思っていた。
似たような毎日に、ゆっくりと慣れていった。
そんな矢先に、閑はまた僕の前に現れて「一緒にレストランやらない? いいシェフ見つけたんだ」と、軽い調子で告げた。
急にいなくなってから三年、一度の音沙汰もなかったとは思えない気楽さだった。
閑にとっての僕の立ち位置を、思い知らされたような気がした。
僕はその話をすぐに承(う)けた。
閑は驚いていたから、きっと僕が断ると思っていたのだろう。
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