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#1
「アヴァン・アミューズは、三色のプチトマトのファルスです。
青いものから順にお召し上がり下さい」
糊のきいたクロス、白が基調のモダンで落ち着いた内装、カトラリーとグラスが、明かりをそっと跳ね返している。
制服は黒だ。白いシャツの上に、背中の開いたカマーベストを身につけ、同色のスラックスとタイ、そして、タブリエ。
僕はお客様の前に笑顔で皿を置いた。
お客様は僕に一瞥も寄越さず、向かいの席に座るこの店のオーナーと視線を合わせた。
お客様は、ピンクのシャツをお召しのふくよかな男性で、少し芝居がかったため息をつく。
オーナーの前には料理はなく、ガス入りのミネラルウォーターの入ったグラスの中で、小さな泡が弾けていた。
「夏っぽくていいだろ。何、だめ?」
オーナーが同意を求めるように首を傾げると、お客様は欧米風の少し大きな手振りで落胆を示す。
料理の説明は自分でするから、今日はしなくていいと言われている。僕は口を挟まずに下がった。
「見た目は悪くないけど、ゴージャスさにも驚きにも欠けるかな」
「そう言うなってー。まず食ってみてよ、ほら」
笑顔のオーナーのスーツはシンプルで、特に高級なオーダーメイドという訳でもない。右の袖口からのぞく時計もそうだ。
三十路目前の彼は、それでもサラリーマンには見えない雰囲気を持っていた。
「つか吉澤太った? この年になると体重落ちにくくなるよな-」
そう言いながらも自分は体型を保ったままのオーナーを見て、お客様――吉澤様は眉を寄せた。
「仕事柄どうしてもね。ジムに行く時間も中々取れないんだよ」
「忙しいんだ? そりゃ何よりだ。まぁ、ほら、食べてよ」
促されて、小さなトマトにフォークを刺して口に運んだ。皮をむいて詰め物をした青、黄、赤の三色のトマトは、酸味、甘み、両者のバランスをそれぞれ感じるように作られている。
「中は、サーモンと菊の花?」
「さっすが吉澤。ほら、次も食って、黄色いやつ」
オーナーに先を急かされることに少しむっとした様子を見せながらも、吉澤様は次の黄色いプチトマトを口に運ぶ。
「……ん、ちょっと、温度上がった?」
「そーそー。冷たいと甘み感じにくくなっちゃうから。一個一個処理変えてんの」
「まぁ、まずくはないよ」
微妙なコメントながらも、そう間を置かずに皿はきれいになり、僕は次の料理のために皿を下げる。
オーナーが「まずくはない」の言葉に抗議しているのが聞こえてきた。
二品目は小ぶりのテリーヌだ。
「アミューズ・ブーシュの水なすのテリーヌです」
「ほら、食って」
「急かすのやめてくれないかな」
オーナーの催促に、テリーヌにフォークを刺す吉澤様の声が苛立つ。
内心、オーナーを蹴り倒してやりたい気分だったが、お客様の前でそんなことをするわけにも行かない。
任せろという言葉を思い出し、何とか引き下がった。
吉澤様とオーナーのテーブル以外、誰もいない。
実はレストランの開店は明日だ。プレオープンは既に終えたが、明日の開店を待たずに吉澤様をオーナーが呼んだのには訳がある。
「とにかく食べてさぁ、うちの店どうだったかブログに書いといてよ」
「そんなことだろうと思ったよ。酷評してもいいわけ?」
その言葉にオーナーはふっと笑う。
「それはないよ。うちの店、うまいもん」
自信に満ちた声だった。
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