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「……あと少し、です……」
びくびくと男性社員に答える。
彼ははぁーっと信じられないとでもいうふうに息を吐き出した
――途端。
「それ、いまから行く商談で使うんだよ!
なのにできてないってどういうことだ!?」
今度は滴も一緒になって降ってきた。
完璧主義の私でも、仕事の締め切りは守らなければならないものだってわかっている。
ちゃんと言ってくれたらそれに間に合わせた。
でもきっと、彼に言ったって聞いてくれないだろうし、そもそも仕事が遅くて彼の想定外の時間をかけて資料を作っている私が悪いのだろう。
「す、すみませ……」
「人のせいにして怒鳴り散らしてりゃいいなんて、いい身分だな、おっさん?」
突然、響いてきた声で課内の空気が凍りついた。
「な、なっ」
「亀ヶ谷に締め切り教えなかったのはおっさんだろうがよ」
背が高く、嫌味なくらいイケメンの彼は、男性社員の前に立ってそのかけている眼鏡を大きな手で覆うようにくいっと上げた。
「じょ、常識的な時間ならもうできあがっているはずだから、言わなかっただけだ!」
「へー」
彼は私が見ていた資料と、実際にできあがりつつある画面の資料を見比べている。
「ああ、こりゃ時間かかっても仕方ないな」
「なんだと!?」
いかにも掴みかからんばかりに詰め寄った男性社員を、彼はしれっと避けた。
「だってこのデータ、去年と一昨年が混ざってるし?
亀ヶ谷はこれ全部、修正しながら資料作ってたんだろ?」
「……はい」
いや、一目見ただけでそれがわかるって、こいつ……いや、営業部のエースの彼ならありうるけれど。
「なっ、そんなっ」
男性社員は彼の手から資料をひったくって確認している。
「こ、今回はそうだったかもしれないが、こいつはいつも仕事が遅くて、俺に迷惑かけてばかりなんだ!」
男性社員が逆ギレしても、彼は全く気にしていない。
それどころか面白そうにニヤニヤ笑っている。
「じゃあおっさん、亀ヶ谷いらないんだ?」
「ああ、さっさと担当替えしてもらいたいね!」
「へー、じゃあ亀ヶ谷、俺にちょうだい?」
「へっ!?」
急に彼から肩を叩かれ、思わぬ展開に変な声が出た。
「おっさんがいらないんなら俺がもらっていいだろ」
「の、熨斗つけてやるわ!」
「えっ、えっ?」
私を挟んでこのふたりが、いったいなんの会話をしているのか理解できない。
「あとで返してくれって言っても知らないからな。
……課長、そういうわけで俺の補佐に亀ヶ谷もらいまーす!」
いいともなんとも言っていないのに、座っている椅子の背を掴んで彼から引き摺っていかれた。
「あの、その」
「お前は今日から俺のもんだからな。
……とりあえず、仕事上だけだけど」
振り返った彼の、右の口端がニヤリと上がる。
――これが、社内一多忙男の鶴沢翔一郎の補佐に、私がなった瞬間でした。
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