823人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
プロローグ 亀は仕事が遅いと決まっている
「おい、亀ヶ谷。
頼んどいた資料、まだできないのか?」
頭上から怒気を孕んだ声が降ってきて、びくんと身体が震えた。
「……はい。
あとちょっと、です……」
おそるおそる、声をかけてきた少し年上の男性社員を見上げる。
彼はあきらかにイラついていて、さらに身体が小さく縮こまった。
「いつまでかかるんだよ。
お前みたいなのろまが補佐だなんて、俺は全くついてないよな」
はっ、と吐き捨てるように男性社員が笑う。
じわじわと浮いてくる涙を見せたくなくて、俯いたままきつく唇を噛み締めた。
「とにかく、さっさとしてくれ。
あと、お前が残業ばかりしてるとこっちの人事考課にも響いてくるんだ。
名前のとおり亀みたいに遅いの、どうにかしてくれ」
「……はい」
彼がわざとらしく忙しそうに足音を立てて去っていき、姿が見えなくなってはぁーっと大きなため息をついた。
私は仕事が遅い。
課長にもさりげなく、何度か注意された。
――でも。
「あ、このデータの数字、古くない?
もっと新しいのがあるはず……」
パソコンを操作して、該当のデータを探す。
そう、これが私の仕事が遅い理由。
もらったデータで言われたとおりに資料を作ればいいだけだってわかっているのだけれど、ついつい完璧さを求めてしまう。
「うっ、また無駄な時間を使ってしまった……」
どうしても手が抜けない自分が憎い。
昔から時間をかけてでも何事も最高に仕上げようとして、まわりから笑われた。
いつもいつも真剣にやる必要なんてない、普段は適当でいいんだって。
でもそれができないのが自分だっていうのもわかっている。
――キーンコーン……。
気づけば、終業の鐘が鳴っていた。
次第に、ひとり、ふたりと帰っていく。
「さっさと帰れって何度言ったらわかるんだよ」
嫌味のように言って、私の担当男性社員も帰っていった。
――チロリロリン。
不意に通知音が鳴り、携帯を手に取る。
【悠華、今日も残業?】
彼氏から心配しているキモかわうさぎのスタンプとともにNYAINでメッセージが入ってきていた。
【うん。
でも、あと三十分くらい帰る】
画面に指を走らせメッセージを送ると、すぐにポン、と頑張れと応援するうさぎのスタンプが送られてきた。
【じゃあ、悠華の家、行って待ってる。
気をつけて帰ってこいよ】
【うん、ありがと】
愛していると可愛いくまさんのスタンプを送れば会話は終了。
気持ちを入れ直して猛然とキーを叩きはじめた。
「なあ亀ヶ谷、いつになったら資料はできるんだ?」
今日も頭上から、怒気を孕んだ声が降ってくる。
毎回毎回、私が少しかかると訊いてくるけれど、締め切りはいつかなんて一度も答えてくれたことはない。
最初のコメントを投稿しよう!