階段の話

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◇  買い物から帰ってきた。  舌打ちをする。横を向いて、郵便ボックスに郵便物が入っていない事を確認する。  階段を登り始める。その度に買い物袋がゆらゆらと揺れる。  鍛えられた体幹が、階段の上り下りで受けるダメージを見事に地中へと受け流している。  男が手すりを見る。手垢で錆び付いたような赤茶に焦げたような跡が見える。  握るのを躊躇う。  登ってきた階段を見つめ、見下ろして、螺旋を階下まで見通してみる。  その度に、ため息をついた。  あいつ、またやりやがった。  男の世界は5階。カンカンと単調に登って、何も考えていないように見えて頭の中ではぐるぐるとああでもないこうでもないという仕様のない言葉達が渦巻いている。  男は扉の前に立つ。鍵を出し、鍵の音を出しながら、差し込み口を見つめる。  差し込み口に鍵を差し込み、捻り込む。  扉が開く。途端、甘い香りが鼻腔に飛び込んで来る。  毒のある林の中に生っていそうな果物の匂いだ。  鼻腔をくすぐるその匂いに閉口しながらも、男は黙って革の靴を脱ぐ。  ごとりと音がする。男が居間に辿り着く。  見慣れた光景が突入して来、男は心の中で嘆息しながら、言った。 「お前、また階段減らしただろ。これで何度目だ」 「だって、階段多いんだもん。疲れるじゃん」  女は居間のソファの上でカップタイプのソフトクリームを食べながら、ぐったりとしていた。 「なんで、そんなに疲れてるんだ」  男が問う。  女が答える。 「アイスクリィムが溶けるから、イライラしちゃって。夏って私、嫌い」 「買ってきたのに」男が言って、買い物袋を掲げてみせる。  女がそれを見て、目を輝かせる。 「それ、何味、苺味、チョコ味。まあなんでもいいや。はよ開けて投げてみそ」 「その前に話だ。何で階段減らした」 「だから言ったじゃあん。しんどかったからぁって。だって階段多いんだもん、嫌になっちゃう。エレベイダー付けておくれ」  だからって好き勝手に階段の数変えられたら、登って来る奴がびっくりするだろ。  男が頭を掻きながら、言う。その中で大量のカップアイスが揺れている。 「だって減らせんるんだもん、しょうがないじゃん。っていうか、階段の数なんて気にしてるのなんて、あんたぐらいだよ」 「気にしてる人間だっているかもしれないじゃんか。俺はいつだって階段の数を毎回数えて、その調子とか虫の死骸がどこにあるとか毎回の違いにも気を配ってるんだぞ。お前みたいに自分の都合で好き勝手に階段の数変えられちゃ、数えてる奴が苦しむんだよ」 「苦しめばいい」あ~ん、と女がアイスをにゃあご、と近づいて来た三毛猫にやろうとする。男がその手からスプーンを取り上げる。「猫にアイスはいかん」 「なんで毎回減らさないと気が済まないんだ。たまには増やしてみろよ。俺だって増えた階段を見たい事だってあるんだぞ」 「階段フェチの気持ちなんて分っかりーませえ~ん」女が言う。  でも考えてみなよ、と女が続ける。どこからともなくスプーンが現れて、もう女の手に戻っている。嘲笑するように動かされるそのスプーンが、男の神経を逆撫でする。 「大人の階段だって、増やされるよりは減らされる方がいいんじゃん。あんただってそうでしょう」  大人の階段は……、その……。男は急に照れたようにもじもじする。 「ほら、認めてんじゃん。早く大人の階段登りたいんじゃん。減らしてやんないよ。あんたの為に残ってる階段は、全部あたしがずっと増やし続けるんだ、ねえ猫~?」  にゃあんご、と猫が甘えたように顎を擦り付け目を細める。男はその様子を見て、明かにムカついたように眉根を寄せた。 「ああそうですか、じゃあお前の社会人としての階段も一生上がらないままだな。俺もお前のためにアイス買ってきてやんねえ。お前は一生誰の為でもなく階段を増やし続けたり減らし続けたりして、自分の都合だけで生きてくんだ。もう知らねえ」  男は逆上して、すかさず革の靴を履きにかかる。居間のテーブルの脇に置かれたアイス達が、カップの中で悲鳴を上げて溶け始めている。  女はたまらず駆け寄った。玄関が急に賑やかになる。猫がにゃおんと声を上げて、女の起立を避けて飛んだ。 「なんでそうなるわけ⁉︎ 別にあんたの事を否定してる訳じゃないじゃん! ねえなんでよ、なんでもう帰るのよ。ねえ、もう来ないの?」 「ああ、もう来ないよ」  男が出て行った。  半年後、久しぶりに様子を見に行こうとアパートを見に行ったら、階段が一段になっていた。  一段目の石段に、白い紙が貼られていた。  男が見る。  それにはこう書かれていた。 「数えろ。数えたら中に入らないといけない」  男は溜息を吐きながら頭を掻き、一段の階段を登って行った。  扉の前にはゴミ袋の山が出来て、中から甘ったるい匂いが漏れ出ていた。  男は自分の持っている買い物袋を一度見てから、扉を見据える。  インターホンは、押さなかった。  
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