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敵をあざむくために、わざと警戒心を持たせないよう、年寄りを差し向けたのかもしれない。
「バカげてるわ……」
彼女はボソッと呟いた。
順番がきて、タクシーに乗り込む。
「韮崎研究所までお願いします」
運転手は返事もせずに発進する。
ひょっとして、この運転手がワナかもしれない。
見知らぬ所に連れ込まれて、海に沈められるのだけはイヤだ。
道路はそんなに混雑してはいなかった。
いつもなら渋滞で、身動きも出来ないほどなのに、スムーズに動いている。
これならすぐに到着するだろう。
早く手渡して、こんなバカげたことは忘れてしまおう。
なのに、タクシーは大通りから外れて左に曲がった。
「運転手さん! 道が違うわ」
彼女は大きな声を出して身を乗り出した。
「違っちゃいないよ。こっちでいいんだ」
ちがう――。
ここで曲がるんじゃないんだ。
「お願い、降ろして」
麻雪は座席の背を掴んで叫んだ。
「どうしたんですか、お嬢さん。あの大通りの先は工事をしていて車線が狭くなってるんです。こっちからの方がずっと近道ですよ」
運転手は笑いながら答えた。
唖然とした彼女は、妙に恥ずかしくなって、両手に顔をうずめた。
ひどい妄想にかかっている。
命を狙われているなんて、この平和な日本であるわけがないじゃない。
「着きましたよ」
彼の声に麻雪ははっとして、逃げるようにタクシーを降りた。
運転手がまだこちらを見て笑っている。
変な娘だと思ったにちがいない。
韮崎ビルは、天に向かって一直線にそびえ建っていた。
見上げれば、最上階が雲に隠れて見えないような気がした。
おそらく、あそこに社長室があるのかもしれない。
自動ドアが開き、一歩、中に足を踏み入れた時、彼女は茫然と立ち尽くした。
二階までの吹き抜けは、広々としていて自分が小人のように見える。
一階はだだっ広く、テーブルとソファーが、ガラス張りの前に整然と置かれてあるだけだった。
大きなシャンデリアが、ドアの前にいる受付嬢の真上でキラキラと光っている。
もしも、あのシャンデリアが落ちてきたら、受付嬢はぺしゃんこだ。
いや……。
妄想がまだ頭から離れない。
「あの、社長さんにお目に掛かりたいんですけど――」
「お約束がおありですか」
相手が少女でも、受付嬢の対応は微笑みながら慇懃だった。
たぶん、社長の教育が行き届いているのだろう。
「約束はしてないの」
「所長はお忙しい方で、お約束のない方とはお会いにならないですわ」
なんだか、憧れてしまう。
こんな言葉遣い、一度でいいから使ってみたい。
「そうね、こう伝えてもらえれば、きっと会って下さると思います」
麻雪はすました顔をして言った。
暗殺者は妄想だったけど、商取引をするキャリアウーマンになりすますのも、けっこう楽しいかもしれない。
「メモリーディスクについて、お話があるの」
「お待ちください」
受付嬢は内線電話を掛け始めた。
社長はどんな人物だろう。
ロマンスグレーの老紳士だろうか。
それとも、尊大ぶって、腹の突き出たおじさんだろうか。
きっと、毎日生肉を喰らって、ぶくぶくと太っているのかもしれない。
「所長がお会いになるそうです。あちらでお待ちください」
彼女は背筋をピンと伸ばし、受付嬢が手で誘うソファーへ歩いていく。
わざとヒールの踵をコツコツと鳴らし、キャリアウーマンらしく装った。
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