サルタンタワーリングの鍵【Ⅰ】

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 韮崎は自分にしがみついている麻雪を見下ろした。  まるで怯えた猫が、大木に登ろうと必死になっているように見えた。 「わたしはね、このままでもかまわないが」  麻雪はパッと両手を離した。 「すみません」 「いいや、何年ぶりかで、香水ではない、シャンプーの香りのする娘に会ったよ」 「それって、わたしをからかってるの」  彼は眉毛をピクリと動かしながら腰を折って、口元を麻雪の耳に当てた。  ゆっくりと近づく彼の顔が、十センチの間しか離れていない。  フッと流れた空気が頬を撫で、心臓の鼓動が高鳴った。 「とんでもない。まじめに口説いてる」  顔の表情が見えないから、本気で言ったのか冗談で言ったのかわからなかった。  ただ、麻雪はとっさにバッグを振り上げた。 「おっと、信じないのか」  バッグは彼の身体にかすりもせず、不発に終わった。 「からかわないで! もう、絶対にディスクのこと教えてあげません」  韮崎俊一郎が、ニヤリと笑った。  やられた。  大人の策略にまんまとひっかかったんだ。 「車の中で、じっくりと話してもらおうか」  逃がすまいと、彼はそばにいて見張っている。  地下駐車場に電話をし、車が正面に回ってくるまで、そばから一歩も離れなかった。  もう、彼から逃げられない。  この場で素直に渡してしまおうか。  そうすれば、命を狙われることもないし、彼と関わる必要もない。  でも、いまさら無抵抗に渡してしまうのは、ちょっと悔しい。  きっと、どんなディスクなのか説明なんてしてくれないだろう。  家に持って帰って、一度見てみたい。  何が映るんだろう。  韮崎ビルの前に停まったのは、シルバーメタルのポルシェだった。  車までメタリックだなんて。  よっぽとマシン的な素材が好きなのだろうか。  ポルシェは青梅街道を颯爽と走り抜ける。  風を切る気分は爽快だった。  窓から入る込む向かい風に、麻雪の髪は舞い上がる。  韮崎俊一郎は前触れもなく歩道脇に、車をスーッと寄せて停めた。 「悪いけど、少し待っててくれないか」  そう言って、彼は車を降りた。  ジョイベルという高級そうな店に入っていく。  入口を隔てて、右側が女性の洋服、左側が紳士服になっている。  彼が入っていったのは右側の女性専門店だ。  店員がなれなれしく、彼の肩に手を置いたのが、大きなガラス越しに見えた。  このままトンズラしようか考えたけど、ポルシェには勝てない。  めったに乗れない車だから、アパートまで送ってもらうのも気分がいい。  などと悔しいけど妙に浮かれてるんだ。  数分して、彼が店から出てくる。  左手にリボンのついた包みを持って、出口まで見送りにきた店員に手を振った。  運転席に乗り込んだ時、弾みで車体が揺れた。 「奥さんにプレゼントでも買ったんですか」  彼が眉をひそめて神妙な顔をした。 「ふむ。わたしはまだ独り身なんだが――」  あっ、という表情で彼女は口をつぐんだ。  三十二歳で独身の所長――。 「きみは今、ものすごい想像をしただろう。この年で独身はおかしいと」  彼が身体をこちらに向けて言う。 「そんなこと……」 「表情に出てたよ」  見透かされている。  人生経験長い人にはかなわないか。 「はい、シャネルの黒いタイツ」  リボンの掛けられた包みを、目の前に差し出された。 「ええっ! 買ってくれたんですか」
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