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「少なくとも、わたしを訪ねて来てくれた人のタイツが破れたわけだから、弁償しようと思ってね」
彼がアクセルをいっぱいに踏み込んだので、麻雪は座席の背に押しつけられた。
首がガクガクして、視界がコマ送りのように見えた。
「どうもありがとうございます」
「さて、ディスクの話に戻そうか。何か情報を持ってきたんだろ」
彼は嬉しそうな顔をして訊ねる。
最初に会った時は、真剣な眼差しだったのに、今はそんなに重要でもない顔つきだ。
いつの間に状況が変わったのだろうか。
それとも、もともと大したディスクではなかったのだろうか。
「そうね。わたしはあるディスクを一枚だけ持っているの。小型だからメモリーディスクだと思うわ。通りすがりの人がくれたんだけど、事情がよくわからないの。もし、あなたが知っていて説明してくれるならば、手渡してもいいわ」
「なるほど――」
韮崎がちょっと目を細めて考え込んだようだった。
考える必要なんてあるのだろうか。
どうしてもっと質問しないんだろう。
どうして、もっと突っ込まないんだろう。
通りすがりの人に貰ったなんて、どう考えても不自然なのに、彼は黙ったまま運転している。
「そのディスク、現在、持っているのか」
数分も経ってから彼が訊ねた。
麻雪は即答せずに、しばらく彼の横顔を眺めていた。
キリッとした眉毛、眼は涼しげで、唇は引き締まっている。
見惚れてたわけじゃないけど、もう少し早く生まれていればよかったと思った。
仕事のできるキャリアウーマンで、彼と対等に話せる立場にいられたかもしれない。
あの松波利恵子さんのように――。
「わたしの顔を見ていてもしょうがないだろう」
彼がチラリとこちらを見て言った。
赤信号になって、ポルシェが横断歩道の直前に停まる。
道路を渡る若い女性が、見ぬフリをしながら、ポルシェと中に乗っている男女を確認していた。
「ディスクはある場所に置いてきたわ。今は持ってないの」
そう言いながら、彼女はバッグをぎゅっと握り締めた。
俊一郎がその仕草をゆっくりと視線で探っている。
だから、麻雪は彼と目を合わせられずに、よけい身体を固くしていった。
きっとバレたにちがいない。
青信号に変わり、ポルシェが静かに発進する。
嘘だとわかったはずなのに、彼は黙ったままだ。
いったい、このディスクには何があるのだろう。
どんな情報が詰まっているのだろう。
もしも重大な秘密が隠されているならば、すぐに返してしまった方が得策かもしれない。
ポルシェはこじんまりとした二階建てのアパート前で停車した。
吹きつけの壁は白く塗り直されて、新築のように見えたが、実は築何十年も前に建てられたアパートだった。
栗本麻雪の部屋は、二階の右から二番目の茶色いドアだ。
2DKのちっちゃな部屋だったが、彼女にとってはお城だった。
階下に住むおばさんが、買い物から帰ってくるのが見えた。
不審な面持ちで、おばさんはあからさまに窓を覗き込んだ。
こんな所にポルシェが停まっているのが、よっぽど珍しかったのだろう。
「ありがとうございました」
彼女はペコリと頭を下げて、ドアを開けようとしたが、それは開かなかった。
窓も開かない。
心臓がドキドキしてくるのが自分でもわかった。
閉じ込められた。
もう、絶体絶命だ。
素直にディスクを渡してしまおう。
麻雪はバッグの中に手を突っ込んだ。
指先で探ってみても、財布と手帳と化粧ポーチとハンカチとティッシュ、そして携帯電話。
内ポケットの中にはガムと駅前で貰った美容院の割引券が入っていた。
「あっ、すまない。ドアロックを解くのを忘れていた」
深呼吸をした麻雪は、くじけそうになる意識を持ち直しながらドアを開いた。
「もしも、もう一度きみと連絡を取りたい場合、わたしはどうすればいいんだ」
「そうね。テレパシーを送ってくだされば、こちらからご連絡申し上げますわ」
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