サルタンタワーリングの鍵【Ⅰ】

1/8
前へ
/67ページ
次へ

サルタンタワーリングの鍵【Ⅰ】

 栗本麻雪(くりもとまゆき)はうつむいて歩いていた。  あ~あ……。  きっと不合格だ。  確かに大会社の募集だったとはいえ、まさか、バイトの応募者があんなにいるとは思わなかった。  きっと五十人位はいたかもしれない。  筆記試験まであって、就職活動じゃないって。  藤倉電子工業――。  コンピューター関係では大手企業だ。  店舗の店員さん募集だったけど、今から働いておけば、来年の就職に有利かと思ったけど、面接でトチってしまった。  口籠って言いたいことが言えなかった。  彼女はバッグを長く持ち、今にも引きづりそうにしていた。  真っ赤なコートを着て、真っ黒いタイツをはいている彼女は、本当に身体も心も寒々としていた。  こんな目立つ服を着てくるんじゃなかった。  栗本麻雪は何度も何度も溜め息をつきながら、とぼとぼ駅に向かって歩いていた。  タッ、タッ、タッ、と誰かが走ってくる足音が後ろから聞こえた。  突然、麻雪は軽い衝撃を感じてよろめいた。 「すみません」  男がおどおどしたように謝る。  何度も後ろを振り返り、まるで警察に追われている犯罪者のように見えた。 「あの……」 「な、なんですか」  彼は普通の濃紺のスーツ姿で、普通のサラリーマンみたいだった。  でも、ちょっと挙動不審だった。  言いがかりをつけられたら逃げてしまおう。  今にも走り出しそうにしている麻雪に、男は囁いた。 「これを、韮崎研究所の社長に渡してくれ。頼む、必ず渡してくれ」  麻雪の手を握り、その中に何かを託した。 「そんな、困ります。韮崎なんて知らないもの……ちょっと!」  男は一度振り返り、駆け出して行く。  スパイ映画を観ているような瞬間だった。  まさか、これを持っていたために、命を狙われて暗殺されてしまう、なんてことはないだろう。  そんな大切なものを通りすがりの少女に渡すはずないか。  麻雪は手の平をゆっくりと開いた。  そこには、小型のメモリーディスクがあった。  なんの変哲もないディスク。  ただ、普通のよりも小さいというだけ。  でも、この中にはきっと膨大な情報が入っているに違いない。  韮崎システム開発研究所。  その名を聞けば誰でも知っている。  もちろん、彼女も本社がどこにあるか知っていた。  西新宿のど真ん中に、三十階建てのビルがタワーのように建っていた。  地上のハデさは表向きで、実は地下に大きな研究施設があると聞く。  コンピューターのシステム開発を手掛け、これまで数多くのハード、ソフトを発表している。  ディスクを見つめていた彼女は、バッグにしまい込み、駅に向かって走り出した。  その彼女を三人のスーツ姿の紳士が追い抜いていく。  ああ、本当にスパイ映画のようだった。  彼女は山手線に乗り、新宿駅で降りた。  ちょっと後ろを振り返る。  誰かが追って来ているかもしれない。  あの時、手渡すのを見ていた人がいた。  なんて、想像すると少し興奮してくる。  あの男かもしれない、それとも、あの女性がつけてきているかもしれない。  疑えば、みんなスパイのような気がしてくる。  タクシー乗り場に並んだ彼女は、スーッと後ろに来た人にドキリとした。  何気なく振り向いて見れば、白髪の老婆だった。  両手には重そうな荷物を持っている。  田舎から出てきて、息子夫婦を訪ねる。  そんな出で立ちだった。  いや、老婆だからといって、侮ってはいけない。
/67ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加