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はじまりの季節、春。
新生活の初日、私の心はガラにもなく浮き立っていた。そう、途中までは。
「ねーねー、あんたが新しい保健室のセンセー?」
「めっちゃ美人じゃね?」
「センセイ、オレここが痛くてたまんなくってぇ。舐めて治してよ」
はじめての職場は、私立の進学校。のはずなのだけれど。
(どこにでもいるものなのかしら。この手合いは)
冷静にそんなことを考える。
背後には壁。無言の私に詰め寄っている三人の生徒は、どうやらこちらが怯えているものと勘違いしてくれたらしく、下卑た笑みをより愉しげに歪める。判で押したように同じ顔。
ああ、気持ち悪い。部屋に染みついた消毒液の匂いでまだ我慢できるけど、嫌悪感が増幅して表情に出てしまいそうだ。
「おいおい、サトウ。センセービビっちゃってんじゃん。いきなり下ネタはきついっつーの。最初はほら、握手からだろ」
「それって握らせるってことだろ。ゲっスいなー、お前」
「ゲスいわけあるかよ。なあセン――え?」
パンツのチャックに手を伸ばしていた生徒Aの肩をぽん、と叩いたのは、BでもC(サトウとか言ったか)でもない、新たな生徒だった。
「楽しそうだなー、お前ら。俺も混ぜてよ」
にっこりと笑うDの表情は、私でも「こいつは危険だ」と思う悪魔的なものだった。
「ひっ……オマエ、朱雀中の」
「や、やだなあ。おれ達ちょっと先生に挨拶してただけだよ」
「そうそう、保健室にはお世話になるからなー」
三人組が口々に言いながら逃げていき、保健室には私とDだけが残された。ピシャン、とドアが閉まる。
「えっと。ありがとう、ね?」
よくわからないが、彼のおかげで助かったようだ。
改めて向かい合ってみると、なかなか整った顔の彼は「いえいえ」とにっこり笑った。さっきとは違う、人懐っこい笑みだ。
訂正。人懐っこく見える笑み。
「私は――」
「入学式の時挨拶してた、泉先生でしょ?」
名乗ろうとしたところサラリと言葉を先取りされる。
「どうして知ってるの?」
さっきの三人は私の名前を知らないようだったのに。すると彼は不思議そうに、
「俺、出席してたし」
「え。一年生!?」
慌てて胸の校章の色を確認する。えっと、三年生が赤で、二年生が黄。さっきの三人組は黄色だった。そして一年生が、彼と同じ、青。
「本当ね……」
「納得していただけましたでしょうか、先生?」
「え、ええ。ごめんなさい。え、じゃあどうしてさっきの子たちは……えっと」
「村崎です」
「村崎君の名前を?」
ああ、やっぱ気になりますよね、と苦笑し、村崎君は「俺、いわゆる問題児なんですよ」と打ち明けた。デスクまで歩き、椅子にどっかりと座る。
「中学校の時からかなー。やたら悪ぶってる奴らに絡まれるようになって、返り討ちにして。あとは助っ人頼まれて喧嘩に混ざったり。気づいたらそこらのヤンキーにはそこそこ知られた名前になっちゃって」
説明しなれているのか饒舌に語った彼は、急に真面目な顔になると私をじっと見つめた。
心がぴくり、と反応した。
めったなことでは動かない、ナマケモノなわたしの心。久しぶりの感覚に、脈が速くなって頬が熱くなる。
「いきなりで申し訳ないんだけど。俺と付き合わない?」
今までの軽い態度とは違う、真摯な瞳。クセのある黒髪が、窓から吹き込む風にかすかに揺れている。
心臓の音が大きい。高揚感に支配されそうになる。
見つけた。そう思った。
ゆっくりと彼に近づき、耳元に口を寄せる。耳たぶが唇に触れた。
「あなたも好きなのね、演じるのが」
相手が息をのむのがわかった。
数秒の沈黙の後、椅子をくるりと回しこちらを向いた彼は微笑んだ。氷のような笑みだ。涼しげな目元もゆるく孤を描く薄い唇も、つくりもののように無機質で。
「先生も、なんだ。それなら話は早い」
そういって顔を寄せてくるのを、私は避けなかった。
唇が触れ合った瞬間、人形どうしの契約は結ばれた。
私と彼は見つけてしまったのだ。
自分の仲間を。共犯者となる、共演者を。
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