桜夢の共演者。

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 夏休みがはじまった。  計画通り、私は暇ができたときは村崎家へ行って孝國くんと、昌國くんと過ごした。昌國くんの警戒を徐々に解き、彼の反応を窺いながら彼に好かれる『泉舞子』を演じ続けた。  実験は順調に進んでいた。  けれどある日、思ってもみなかった事態が発生したのだ。  朝は補習があっているから、養護教諭は在室していなければならないのだけれど。サボタージュする子はそもそも登校してこないし、体育はないから怪我する子もいないしで、保管室は基本的に開店休業だった。同じように暇を持て余してやってくる先生たちと、お茶を飲みながら世間話に興じたりして過ごした。  その日も三時間目の時間に一人の先生が訪れて、その相手をしていた。お茶の用意をしながらしばらく雑談する。 「最近、井上君が図書室にこなくてねえ。こちらには来ていないかい?」  図書室の司書を務める陣内先生はふと思い出したように言った。私は彼女にお茶を渡しながら首をかしげ、 「井上さん? いえ、こちらにもここ数日は来ていませんけど……学校に来てないのかしら。調子がいいのかとばかり思っていたのですが」  彼女が保健室・図書室の常連であることは、教師たちのネットワークの中では知られていることだった。 「なにも彼女の活動範囲がここと図書室とは限るまい。補習も大事だしね。でも……」  そこで一度言葉を切り、お茶をずずと啜った先生は「ん、おいしい」と感想をくれてから、ぽつりと言った。 「少し前に、オススメの恋愛小説はないかと彼女から言われてね。年寄りながらに厳選して、準備していたのだが……」  私の向こう、窓のほうを見て「おや」と目を細める。 「天気が崩れそうだね。今日は早く帰るとしよう」  つられて振り返る。青空に紛れ込んだ灰色に、心がかすかにざわついた。  お昼になり、生徒たちの喧騒が遠く聞こえだした。大半は部活に行くのだろう。  孝國くんは、今日は来れないと言っていた。知り合って数か月になるけれど、なんとなく、連絡先は交換していなかった。 「泉先生」  細く澄んだ声に、振り向く。ドアのところに井上さんが立っていた。 「あら、井上さ――」  その顔を見た瞬間、過去から伸びてきた細い手に心臓を鷲掴みされたような恐怖を感じ、身がすくんだ。視界に映るすべてが色を失い、自分の顔から「保健室の先生」の仮面がばっさりと剥がれ落ちるのを感じた。 「先生、うそつき」  燃えるような、憎悪と嫌悪と悲壮に濡れた瞳が、私を見据えていた。 「どうした、の」  声が震える。訊かずともわかっている。ああ、この目は。彼女のこの目は。 「村崎くん、なんでしょう? 先生の、コイビト」  ちいさな唇から紡がれるのは、か細くも綺麗でもない、不気味に力強く低い声。  声も出せない私に、さらにたたみ掛ける。どんどんおっとりした口調が掻き消えてゆく。 「でも、先生は好きじゃないでしょう? 村崎くんのこと。先生は恋してないもの」  暗い瞳はすべてを見透かしている。私に関しては。 「あんなにやさしい人を、だまして自分のものにするなんて。好きでもないくせにっ。まるで操ってるみたい。ねえ、」  ねっとりとした声。そこだけいくつもの幻の声が重なって聞こえた。 「先生って、魔女みたいだね」  その瞬間、『泉舞子』は消えてしまう。『魔女』が笑い声を響かせながら私を奪う。 「な、なに笑ってるの! わたしが村崎くんのこと好きだって知っててつきあってたんでしょう!? ひどいよ、わたしのことへんな子だって馬鹿にしてるの!? けっきょく先生もみんなと同じなんだね!」  大きな目はさらに見開かれ、ギラギラと危険な光を放つ。小柄な体に力を込めて、全身で彼女は叫ぶ。吠える。 「村崎くんだってあなたがこんなのだって知ったら、きっとキライになるはずだよ!」  そのあともなにかわめいていた彼女は、いつの間にか出て行っていて。保健室には放心した私だけが残されていた。  ぼんやりとしたまま足を動かし、ふらふらと廊下を進む。  外はひどい雨だった。風も出ている。まるで嵐みたいだ。  どしゃ降りの中を歩き出す。瞬く間に服は濡れ、肌に貼りつく。体温が奪われていく。  気づけば、通いなれた道を進んでいた。あの家へ向かう道。まわりに人影はない。 「あは、あははは」  笑い声が聞こえた。魔女が笑っている。 「ははははははは!」  かわいそうにね、かわいそうにね。あなたは彼のことをなんにもわかっていない。  騙してる? あんなにやさしい人?  なんにもわかっていない、盲目の乙女よ。不思議な子にしてふつうの女。そのまま夢を見続けなさい。あなたのきれいな言葉なんて、一途な恋心なんて、彼には届かないわ。  ふふ。あははははははははははは。  ああ、おかしい。おかしくておかしくて、気が狂いそうだ。
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