0人が本棚に入れています
本棚に追加
遠い空の下
翌日。
昨日とは打って変わって晴天の熱海温泉郷である。
僕はいつも通りのルーチンワークの、長時間糞ブラック鬼シフトをこなしていた。
目の前には、シーズンオフにも関わらずどぎついサングラスをかけ、白衣をなびかせた不審人物風の少女が、腰に手を当てて、銅像……つまり僕の前に立っている。
「それで結局、金色夜叉の芝居見物をしてきたってわけか! いやはや実に……優雅な休日だったね、うははははは!」
海光町は心底楽しそうにバカ受けしている。銅像の前でひとり高笑いする少女を、通行人の皆様が一瞬振り向いては見なかったことにして通り過ぎてゆくのであった。
「偶然とは思えないよなぁ。どうやらおかしな因果に引っ張られたみたいだね。ま、そのお陰で無事熱海にも帰ってこられたわけだけど」
「結局君ってやつは、お宮さんから逃れられない運命のようだ」
「まさしく……」
「それで、その芝居はどうだったんだい」
「ああ……それがねぇ、驚かされたよまったく! アイツあんなにうだうだ悩んでおきながら、舞台の上ではまるで女にしか見えないんだ! 別人だよ別人。千回聞いた話なのに思わず見入っちゃったもんね。声もいいし、女ならではの葛藤なんかも、かなり見応えがあった! いやもう、僕よりずっと本物のお宮さんだったねぇ」
海光町は僕の絶賛に頷きながら、最後は顎に手を当てて「ふむ」と首を傾けた。
「そんなに宮さんが板についてるなら、スカウトしてくればよかったのでは」
「はっ!」
固まる(元より固まっているが)僕を尻目に、海光町はくるりと白衣の裾をなびかせて、海岸通りの方に足を向けた。
「その手があったかーーーっっ」
「……まだまだ研究の余地がありそうだ」
舞台上に立っていた、着物姿の女を思い出す。
それから巻き戻しをするように、雨の中へ駆けてゆく青年の後ろ姿、ボート上での言葉、公園散策、ティーカップから見た黄金色の風景、眼鏡の奥の小難しい瞳、吉祥寺の秋晴れの空。
彼は今日も、悩みながら東京の街で必死に過ごしているのだろうか。
遠い空の下に、友人がいるというのは、なかなか気分がよいものであった。
最初のコメントを投稿しよう!