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雨の熱海銀座
硝子扉の向こうに見える熱海銀座は、土砂降りであった。
白く煙る十一月の冷雨と対照的に、喫茶店の店内はどこまでも温かく、底抜けに僕を甘やかす。平日で人通りもまばらな商店街を眺めながら、のん気と平和をスプーンで溶かしたモーニングコーヒーを優雅にすすっていた。
コーヒーの湯気の向こうには美少女がにこにこと楽しげに微笑んでおり、それもまた非常に趣がある。
「どうだい東海岸町、俺と飲むコーヒーは美味しいだろう!」
……美少女というのは、例によって休日の海光町なわけだけれど……。
「相手によって味が変わるってのは聞いたことないけどね……美味しいよ、ウン」
「結構結構。ぐいぐいイきたまえよ」
今日はこの変人と二人してオフである。
開店時刻にこの喫茶店に集合して、本当ならまた謎の登山と謎の電磁波集めに付き合わされるところだった。毎回付き合いつつも、終ぞ目的は謎なところがポイントで、しかし謎な割に毎回付き合ってやるところもまた奥深いポイントなのである。要するに仲が良い。
しかし今日はこの生憎の天気だ。結局予定は中止となり、こうして喫茶店にほかほかと停留している。
熱海は、今日は一日雨だろうか。
今朝、部屋の窓から覗いた時には、寒々しいビーチには人っ子一人いなかった。濃灰色の雨雲を映す海。海面に落ちる雨は、薄ら寂しく……。
バイトが休みで本当によかった。
これだけは運次第なのだが、こんな雨の日にクソ寒い中長時間あんなポーズを取らされていたら、惨めさに拍車がかかるってもんだ。本日のアンラッキー宮を慮りながら、追加でモーニングのワッフルプレートを注文した。熱々でおいしそう!
もふもふと頬張っていると海光町が腕を伸ばし、僕のコーヒーにたらたらとミルクを流し込んだ。
「東海岸町、飲んでなくない?」
せっかくの計画が雨天中止になったのに、海光町は何故か機嫌よさげである。それならそれでいいのだけれど、美少女がニコニコしているのは世界平和の象徴だし。
かくいう僕も、ここ最近だいぶ国宝級黒髪少女が板についてきた。本日も絶好調で秋物のワンピースをフリフリと着こなしている。
「ずいぶんとご機嫌だね、海光町。……もしやまた新発明でも思いついた?」
コーヒーに口をつけながら訊ねると、海光町は可愛らしく肩をすくめた。
「どうかな。まだうまく行く確証はないんだがね」
指先でストローを弄ぶ。肌寒い日であったが、彼はアイスオーレを頼んでいた。
「ふぅん」
「ただ、これが成功すれば世紀の大発明になることは間違いない」
「好きだねぇ、世紀の大発明」
まぁ僕もずいぶんとその発明に助けられている身だ。
この男は突拍子のない所がたまに傷だが、その熱心さは称賛に価する。ひょっとしたら未来を変えちゃうぜ? と言わんばかりの情熱の注ぎっぷりであり、実際、僕の暗黒シフトまみれの未来はちょっと変わった。
「それで? 今度はどんな発明なんだい」
「ソレ、」
と言って海光町が笑顔で指さしたのは、信じられないことに僕が手に持っているコーヒーカップであった。
「……は?」
「東海岸町、君も知ってのとおり、我々の存在というのは極めてあやふやなものなのだ。あやふやとは、つまりはっきりしない事、曖昧である事。実はだね、これと似た言葉がある。たいへん便利な言葉なのだよ東海岸町、行き詰った俺の研究に一筋の光が射しこんだ!」
「ちょっと……ちょっと待って、ちょっと海光町」
何やらぺらぺらと高尚にのたまっているが、一向に頭に入ってこない。
震える手で、コーヒーカップを見下ろした。
「さ……、さっき何入れた……っ!?」
「話は最後まで聞くものだよ、君。あやふや……それはつまり、うやむやにすることもできるのではないか、と。俺はそんな仮説に辿り着いた。類似した性質のものに身をゆだねれば、俺たちの可能性は大いに、……そして爆発的に広がるはず!」
「はず」で一服盛るな!
「掴みどころがない、というのを逆に利用したのだよ」
ついていけない僕が口をぱくぱくさせていると、半分ほどに減ったコーヒーカップの中から尋常ならざる湯気がもわもわと立ち上り始めた。
「お店の人に怒られるぞ!?」
そういう問題でもない。
「どんな気分だい、東海岸町。君は今半分くらいコーヒーの湯気になっているはずなんだよ」
「卑怯者! 変態! 僕のことをなんだと思っているんだ!? 実験台か何かだと思ってるんじゃないだろうな!? って聞けよ!」
お客様おしずかにーという店員の声にのん気に頭を下げたりなんかしている。そうこうしているうちに、どうも体の様子がおかしくなってきた。
内側からくらくらと何かが決壊していくような……、分離を繰り返して、霧散に変わっていく感じ。僕は今、本当にここにいるのか……? この熱海銀座の喫茶店の、ソファの上に……。
「東海岸町、……あれ? 君は一体、今どこにいるんだい?」
こっちが聞きたい。いつの間にやらふわふわと、コーヒーの馨しい香りに四方八方から包まれている。店のショーケースを叩く雨の音が、次第に遠のいてゆき―……、
お客様はお静かになった。
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