悩める青年

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悩める青年

 コーヒーの香りがしている。ということはまだ喫茶店の中にいるのだ。  店内はかわらず、ふわふわと温かい。海光町、と短くくちびるを動かしたが、特に返事らしい返事はなかった。  先ほどまでの出来事は、もしや夢? だとしたらとんでもない悪夢である。 「う、うー……んんん」  なんだ、やはりうなされている……。爪の先から自我を搔き集めるようにして、意識を取り戻すことに集中した。 「んんんんぐおおおお」 「……?」  よく聞くとそれは僕の声ではなかった。  男の声だ。苦悩に満ちた声で、近くで誰かがうんうんと唸っている。  ゆっくりと体を起こすと、やはり喫茶店の店内であった。しかし……。  どこか違和感がある。  僕はぽやぽやとした寝起きの頭を傾けた。コーヒーの香りは変わりないが、何かおかしい。……壁にかかっている時計は、こんな形だったろうか。壁紙はこんなに洒落たアーバンテイストだったろうか。  輪郭の見えない正体不明の違和感が、徐々に目を覚まさせてゆく。テーブルの上に視線を戻し、僕はますます眉をひそめた。  今度こそ記憶違いではないだろう。真っ白だったはずの洋風のコーヒーカップが、陶器風の和モダンなカップに変わっている。ふわふわと香り立つ湯気が、逆に白々しく訝しいものに思えた。  極めつけに、奴の姿が見えない。海光町だ。  あの野郎は一体どこに姿をくらましたというのか。辺りを見回そうとして、ふとホンノウ的な不安に襲われ咄嗟に自分の身体を見下ろした。……よかった、いる。 「あああー、だめだ、だめだっ、さっぱりわからん……!」  相変わらず、付近では誰かが少々派手めにうなされている。さっぱりわからない、という点において気が合いそうだ。  声の方向に視線を上げると、斜め前のテーブルに、若者が一人座っていた。  ちょうど僕と同じくらいの年頃だろうか。  銀フレームの丸眼鏡に重装甲なクセ毛の黒髪、死ぬほどうだつの上がらない、インドア日本代表というような出で立ちである。  よく見ると骨格は中々よろしい。背中を丸めている姿より、堂々と立っていれば随分人目を引くだろうと感じた。  彼は地元の学生だろうか。机の上に置いた紙束へかじりつくようににらめっこして、ぎんぎんと目を血走らせている。 「……何故だ……何故ここで……この言葉が……」  ブツブツと鬼気迫る様子で何事か結論を出そうと唸っていたが、そのうち脱力して天を仰いだ。根暗そうな見た目に反して、仕草は派手な男である。  青年は結局ナヤミゴトの結論が出せぬまま、苛立たし気に席を立った。さっさと会計を済ませ、早足でそのまま店を出て行ってしまう。美少女に一瞥もくれないとは、よほど重篤な悩みを抱えていると見える。 「……あ」  空になった席を見て、思わず声をあげた。傘、と短い単語が口をついて出る。  青年の座っていた背もたれに、青い傘が取り残されていた。外は土砂降りだったはずだ。すぐ戻ってくるかと思いきや中々戻らない。  目を覚ますついでに、僕は立ち上がり、傘を掴んで青年の後を追いかけた。    青天の霹靂、というのはまさにこの事。  喫茶店のドアを開いたところで、僕は頭上を見上げ呆然と立ち尽くした。  これは一体、まやかしでも見せられているのだろうか。自分自身が幻覚であるにも関わらず、目を疑う光景にぽかんと間抜けに開いた口が塞がらない。  快晴。  秋晴れの空には、うろこ雲がぽこぽこと浮いている。  先ほどまで店の外は土砂降りだったはずである。人気のないアーケード、ショーウィンドウに跳ねる雨滴と雨の匂い……。  しかし今、目の前の通りには花火大会の日にしか見られないような数の人、人、人。いや、というよりも、……まずここは熱海銀座ではない。  焦燥感に駆られながら人混みの中に飛び込み、三六十度ぐるりと周囲を見渡した。右も左も、見た事もない店名の看板がひしめきあっている。  どうやら商店街にいるようだが、仲見世通りでも平和通りでもない。干物の香りも、温泉まんじゅうの湯気も皆目見当たらなかった。  雑踏の中立ち尽くしていると、後ろからポンと肩を叩かれた。 「か、海光町……っ」  ではなかった。  果て、この女性は誰だろうか。湯けむりの匂いがしないということは、仲間の変身ではなさそうだ。エプロンを腰に巻いた快活そうな茶髪のおねいさんは、ニコニコとこちらに向かって手を差し出した。  つられてニコニコ首を傾げると、リップを塗ったぽてぽてとしたくちびるが、あくまでにこやかに、しかし有無を言わさぬ力強さでこのように発音した。 「お勘定」  窮地というものは、いつも行き当たりばったりに訪れるものだ。  不慮の事故で、荷物も何も持っていない。考えれば考えるほど、おかしな状況に投げ出されてしまったものだ。ああそうか……もしかするとこれは、夢の中の出来事なのかもしれない。だとすれば一切の責任は僕にはな 「痛い痛い痛い痛いギブギブギブ! 肘、肘がっっ、肘じゃなくなる!」  夢ではなかった。このお姉さんはきっと何らかの有段者である。クラウチングスタートの準備もできぬまま冗談じゃない羽交い絞めにされて揉み合っていると、 「あ、あった、俺の傘」  と唐突に、無銭飲食の修羅場に似つかわしくない、のらくらとした声が響いた。  有段者系カフェ店員と同時に、二人して声の方向に振り向く。  銀フレームの眼鏡に、樹海のごとく陰気な前髪、根暗世界チャンピオンの風格を漂わせた例の若者は、何の気なしと僕の手元の傘に手を伸ばした。  渡りに船。  迷う必要もなく、僕はその手をきゅっと握り返した。美少女の真価をいかんなく発揮すべきタイミングは、本日においてはまさしくここだと確信しつつ。  樹海の向こうの目がぎょっとして顔が引きつる。逃がさないようぎゅうぎゅうに手繰り寄せ、僕は威風堂々微笑んだ。 「置いていくなんてひどいわっ」  会心のスマイル。  税込み五六十円ほどの価値はあるだろう。 「下手くそな芝居打ちやがって」  思いもよらぬ第一声であった。 「な……っ!?」 「狸芝居に付き合わせるな。蕁麻疹が出るわ」  樹海眼鏡はまるでミトコンドリアの死骸でも見るような目つきで僕を見下ろし、星一つの酷評を下した。アカデミー級に可憐な乙女に向かって、なんという低評価。  とにかく僕の小芝居が気に入らなかったらしい青年は、店員が去ったところで、本来ありがたみの塊であるはずの華奢な真白き細腕を、意にも介さない様子で振り払った。  奪い取るように自分の傘を掴むと、鼻を鳴らしてそのまま立ち去ろうとする。 「ちょ、ちょちょちょっと待って、待てよーぅ!」  追いすがったのは、罪悪感や、せめてお名前でもー、とかそういうお気持ちからではない。  なんせ僕が今立っているのは、名も無き窮地なのである。頭の天辺からつま先まで困りつくしている。  当面の危機からは逃れたものの、途方に暮れるとはまさにこの事で……。せめて市街地図があれば、東海岸町を指さしてうるうるとタクシー代を懇願できるのに。望むなら、スマイル一万円台もやぶさかではない。 「離せ、茶番女っ」 「なにおう!? せめて茶番美少女と言えっ」  青年が僕のあまりの図々しさに怯んでいる隙に、えいとまた傘を取り上げた。 「あっ、コラ」 「返してほしくば、ここが熱海市のどこなのかおし」  えなさい、の四文字が、ぷっつり途切れて出てこなかった。僕の目は、道の向こうの旅行代理店の広告に釘付けになっていたからだ。 「アタミシ? ……熱海?」  戸惑うような青年の声が、やたら遠巻きに聞こえる。  オフであるのにまるで銅像のごとくその場に固まってしまった僕から、青年は手際よくさっさと傘を取り返した。目も口もおっぴろげたまま硬直している僕を見て「おい」と声を掛ける。 「どーした」  どうもこうもないでしょうよ。  通りの反対の旅行代理店には、カラフルな国内旅行のチラシが並べられている。  その中に、あるはずのない漢字四文字を見つけてしまったのだ。ここは本当にどこなんだ。だって熱海に、「熱海旅行」のチラシなんて、あるはずないでしょう。  バスがとおります、と警備員か誰かが叫んだ。路上に迫ってくる見た事のないバスに、見た事のない地名が書かれている。 「……ここには、」  つっ立ったままあわや引かれそうになる僕を、青年は面倒そうに白線の内側に寄せた。 「海と温泉はある?」  そう聞くと青年は怪訝そうに顎をのけ反らせた。ポケットからスマホを取り出し、親指でぺしぺしと画面を叩く。 「ない」  少し間を置いてから、画面に視線を落として呟いた。 「大きな池と……ああ、銭湯ならある」 「どうりで……湯けむりの匂いがしないと思った。潮の香りも……。ねぇ、僕ヘンな事言ってるよね。なんだろう、どうかしちゃったのかな、あるはずないのに、こんな事」  体のそこからふわふわ湧き上がる、この感覚はなんだろうか。 「ヘンな奴には慣れてる」  僕も慣れている。  そうだ、まず間違いなくこの現象は、変人の海光町が盛った謎のコーヒーフレッシュXに起因するものだろう。  自称変人慣れしているという青年のその言葉を信じ、僕はわなわなとにじり寄った。今僕の身には、とんでもない事が起こっている気がする! 「お言葉に甘えてもうひとつだけ聞くんだけどっ」  海光町は言っていた。コーヒーの湯気……、存在をうやむやに……、「俺たちの可能性は大いに広がる」……と。そして今僕がいるこの場所は、熱海ではない。  体の底から湧き上がるこの実態なきふわふわは、間違いなく高揚感であった。 「ここは、どこ?」  青年はスマホを僕の目の前に掲げた。現在地を表すピンがぴこぴこと揺れている。海も山も花火も温泉も、そして貫一お宮の銅像もない街。 「吉祥寺だけど。アンタ迷子なのか?」 「ま、」  迷子だなんて、とんでもない。迷子というのはもっとみじめで湿っぽくて涙なしには語れぬ負け犬的存在で、つまりこんなに踊りだしたいような気持ちで、僕に迷子と名乗る資格はない。 「吉祥寺!」と僕は叫んだ。往来の何人かが振り返り、青年は少々苦い顔になる。 「……そう。東京都武蔵野市吉祥寺えーと」  スマホを自分の方に向け、画面の文字を読み上げた。 「南町」 「東京!」と僕は再び叫んだ。他人のフリする三秒前みたいな顔をしている青年の両腕をがっちりホールドして、「東ーー京ー!?」ともう一度叫んだ。息を吸い込むと、嗅ぎなれない雑踏の、アスファルトと都会の匂いがする。  他人になりたくて堪らない青年は、そうだよはなせよと顔を近づけて小声で文句を言ってきた。しかしもちろん僕の耳には入らない。 「東京……東京! ……初めてだ……!」 「ああ……観光の人だったのか。だったら駅かどこかで地図でももらっ……聞いてる? 聞いてないな」 「……か、」  観光の人……観光の人……観光の人……。  衝撃的ワードが頭の中に幾度も反芻する。よもやこの身に、そのような栄誉な肩書を背負う日がこようとは。脱観光スポット、脱ランドマーク、脱被雇用者!   これは、想像を絶する身軽さである。どこへなりとも行けるような気がした。差し当たってはこの土地の観光名所をご案内賜ろうではないですか! 「……って、あ、アレ?」  辺りを見回すと、数メートルほど先に、セーターの後ろ姿が足早に雑踏に紛れ込もうとしているのが見えた。  「離せ」  この人混みの中で見失っては永久に再会することはできないだろう。紺色のセーターを掴んで、僕は先手必勝で条件を突き付けた。これ以上なく、断りようもないやつを。大声ですなわち、「なんでもするからっ!」 「他をあたれ。暇そうに見えるかもしれんがな、頭の中は忙しいんだ」 「美少女のありがたみのわからん奴め! なんでもっつってんだろ、あやかれよ!」 「うるせぇ、滅多なことを言うんじゃねぇよ」  一蹴して、今度こそずかずかと青年は人混みの中へ消えてしまった。  あんにゃろう、強がりじゃないとしたらタイプじゃなかったのか? 海光町みたいに派手なタイプが好きとか? それならもう一工夫こらしてみようか、と姿を変えようとして、僕はありゃと首を傾げた。  変身ができない。  不思議なことに、普段なら吸ってー吐いてーくらいの感覚でできるはずの変身ができないのだ。おかしい。いつもは何を吸って吐いていたんだっけか。……考えるまでもなく、揺蕩う湯けむりである。  その時、再び何者かに肩を叩かれた。振り向くと五十代半ばほどの男が立っている。もちろん湯けむりの匂いはしない。  男は僕の姿を上から下まで眺め倒し、何やら好きな食べ物を前にしているかの如くニコニコと楽し気であった。ボーダーシャツの模様が伸びるだけ伸びて、ボーーーーダーーーーシャツにその形態を変えている。 「道に迷っているのか」と聞かれたので、はいそうですと正直に首を縦に動かした。続けざまに案内しようかと提案される。本日二度目の渡りに船。そっと差し出されたその手は光り輝いており、……触ると少々ぎとついていた。 「いやぁ、東京には親切な人がいるもんですなぁ。もしやボランティアガイドさんですか? 熱海にもいますが……ん、あれ」  がしっと握手を交わしたつもりだったのだが、その手はなにやら固く握って外れない。  揚々と僕の手を取って、男は歩き出した。 「……繋いだこの手を……離したくない……」  何やらうっとりとした声が聞こえてくる。 「えーそんなんでいいんですかぁ!? オジサマさすが太っ腹! 腹が太い! さっきの若者なんてもぉー、全然なっとらんのですよ。人の好意をなんだと思ってるんだか、」  とそこまで言った所で、空いていた方の腕をぐい、と強く引かれた。 「夕方までなら時間がある」  相変わらず堅物顔の銀フレームは、不機嫌そうな顔で眼鏡のブリッジを押し上げて、面倒そうにそう言った。
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