夢の吉祥寺観光

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夢の吉祥寺観光

   東京都武蔵野市吉祥寺南町。  静岡県熱海市東海岸町からの距離は約百キロと、キリが良い。東京の中では緑が多い方らしい。  昭和ノスタルジーとまではいかないものの、決して最先端ではない、可愛げのある風情が漂う街であった。素敵なものを意図的に残しているような、健気な風景が街角に点在する。  街の成り立ちまでは知らないと青年は言っていたが、身に馴染んだ温泉郷とはまったく違う歴史を辿ったことは確かだ。徳川家康が熱海温泉を愛したように、きっと喫茶店や雑貨屋に目がない将軍がいたのだろう。  ここ数十年、僕にはほとんど「知らない道」というものはなかった。道を曲がったらどこに出るのか分からないというのは、実に新鮮で、心躍る体験である。 「本当に、見た事のないものばかりで、目がくらくらする。松屋、富士そば、ドン・キホーテ!」 「アンタが楽しんでるなら別にいいんだよ。いいんだけど、観光があまりにも下手くそすぎる」 「仕方ないだろ、観光客レベルワンなんだから。じゃあいちばん面白い所を教えてよ」  眼鏡っこは、眼鏡っこらしく生真面目な顔をして、しばし腕組みをした。 「……二番目なら連れてってやろう」 「はぁ?」  信号の色が赤に変わる。歩幅を合わせる気もなく、青年はすたすたと歩き出した。二番目などとひねくれた事をいう。しかしどちらにせよ、ついていく以外の選択肢はない。  大きなデパートの横の脇道にそれると、ますます吉祥寺という街の風土がその本領を発揮してきた。  まず漂ってきたのは、熱海では嗅いだことのないような、ほわほわと夢見心地の甘い匂い。匂いの出所を感知した僕は、紺のセーターをこれでもかと引っ張って片手に黄金の粉焼きをゲットした。つくづく人を甘やかすクリームの風味に酔いしれながら、こいつはいつか絶対に熱海にも導入されるべきだとしみじみ願う。  道はだんだんと下り坂になってゆき、今度は爽やかな金木犀の匂いが香ってきた。目を閉じてすうと吸い込むと、誘われるような心地よさを感じる。軽やかに靴をならしながら、秋晴れの小路を闊歩した。  道のわきに立ち並ぶ商店は、どこも店頭を華やかに賑わせている。 飾られている商品に生活感というものはほとんど見えず、まるで物語の世界のマーケットのようだ。気の早いクリスマスのオーナメントが、そこかしこにキラキラと揺れている。  この街にまやかしはいないだろう。辺りに漂っているのはそこはかとないメルヘンである。  道行くひとたちは、もしかしたら皆人形なのかもしれない、という想像で僕はこっそりほくそ笑んだ。箱庭のような可愛らしい街を歩いている。  道の突き当りには、森へと続く下り階段があった。 「もしかして、ここ?」  青年は頷いて、先に階段を降りていく。さわさわと、葉擦れの音が耳をくすぐった。青年に続いて一歩ずつ階段を降りる。 「観光地ってほどでもないけど、ここがいちばん有名なんじゃないかな」  階段を降りきると、雑踏や都会のざわめきが一切消え失せた。  森に囲まれた森林広場には午前の陽射しが降り注ぎ、穏やかな時間が流れている。クレープをあぐあぐと食べながら、僕は改めて辺りの様子を見渡した。  緑とせせらぎに囲まれた憩いの森……、案内板には「井の頭恩賜公園」とある。井の頭公園、というのは、なるほど僕にも聞き覚えがある。  小鳥たちが楽し気さえずって、いよいよ僕たちをおとぎ話の世界へと誘った。一体僕は、どこに迷い込もうとしているのだろうか。  そんな疑問をワクワクと抱えながら、木漏れ日の森林へ足を踏み入れた。  広々とした園内図には、ボート乗り場や神社、果ては遊園地や動物園の文字まである。熱海もたいがい詰め込みすぎな街だが、この公園の詰め込み具合もなかなかに常軌を逸している。そしてそれは素晴らしく僕の心をくすぐった。 「どこから回ろうか!? 夕方までなら、全部回れるかなぁっ」 「どこでもいい」  クレープの最後の一切れを飲み込んで、紙をくずかごの中へえいやっと捨てた。 「なんだよ、協調性のないやつだな! せっかくの観光なんだからいっしょに楽しもーよ。なんなら別にデートと思ってくれてもいいですけどー?」 「そんなのん気な気分になれねーんだよっ」  ああそういえばと手を叩く。 「なんか悩んでたね。見てたよ、喫茶店で唸ってるところ」  そう言うと青年はますます眉間にしわを寄せた。そのような表情は、つくづくこの爽やかな公園に似つかわしくない。 「よろしい、協力しよう」 「あ?」  この上なく開放的なこの場所で、解決しない悩みなどあるものか。彼が渡りに船ならば、僕は大船にのせてあげようじゃないの。  スカートを翻し、軽やかに一歩を踏み出す。まずは園内をぐるりと周ってみようと思った。 「言っただろう、なんでもするって。どうせ行きずりなんだから、気軽に言ってみなさいよ」 「本当にヘンな奴だな」 「ヘンな奴には慣れてるんでしょ?」  お堅い眼鏡クンは、やっと少し笑った。 「じゃあ、ちょっとばかしアンタのこと観察させてくれ。俺は夕方までに……女心を理解せねばならんのだ」 「……なにそれ」  急激に真面目な顔になって、何を言い出すんだろうかこの眼鏡くんは。 「それってつまり昼と夜とで女のカケモチを……」 「違う、断じて違う」  なにやら特殊な事情があるようだが、悩める青年はそれ以上語ろうとはしなかった。  女の観察、と言うけれど、僕の「女」などまだまだ素人の域である。いや、お宮の代役選びの打率はここ最近上がってきたから、もうセミプロと呼んでいいのかもしれないが……。   しかしまぁ、たった一人、例の着物姿の女性についてなら、プロと言っても過言ではないだろう。 「まぁいいよ。どうぞジロジロ見て。見られるのには慣れてるんだ」  そう言うと青年は片方の眉を吊り上げた。「へー意外」という顔だ。考えていることが非常に分かりやすく伝わるのが、この青年の大きな特徴のひとつだと思った。 「人前に出ることが多いのか?」 「まぁねー、ご期待に添えるかは分からないけど。……ねぇ、それってやっぱりー、デートしたいだけなんじゃないのー?」 「……人間観察だっ」  大きな声で誤魔化しても、考えていることは手に取るように分かった。  広い公園の中には大きな池があり、途中に所々、対岸に渡る橋が架かっていた。弁天橋、狛江橋、七井橋……。池の中に噴き上がる噴水は、日光を浴びて眩しくしぶきを散らしている。  都会と思えぬ森の中に時折商店やカフェが現れ、これがまた味わい深い。  経営者は本当に人間だろうか。もしかしたら魔女か仙人かもしれない。おとぎ話のファンタジーとむかし話の古めかしさが、森のあちらこちらに潜み、混在していた。  僕たちはぐるぐると敷地内を徘徊し、橋を何度も往復し、神社にお参りし、人の飼い犬に手を振り、無意味にベンチに座り、やり遂げられないアスレチックに挑戦し、次から次へと軽食を腹に入れ、花や木の名前をいくつか覚え、やりたい放題公園を満喫した。  歩道橋を渡り、今度はレトロで可愛らしいガラス造りのどうぶつの看板のかかった「自然文化園」へと突入を試みる。  無論、僕にとって動物園というのも初めての経験である。  ほんものの動物を見る度に手を叩いて大喜びする僕に、旅の道連れは「お前一体何歳だよ」と呆れた顔をした。話せば長くなるので、ご想像にお任せする。鶴よりも亀よりも長生きですとも。  それにしたって彼は、散策中もずっと僕を眺めながら難しい顔をしているのである。  小さな遊園地のコーヒーカップの中で優雅に都会の風を感じながら、僕は目の前でしかめっ面をしている青年に調子はどうよと訊ねた。 「何か分かった?」  青年はため息をついて首を横に振る。 「いや、ただかわいいだけだな」  もう少し美少女のメンツを立てて欲しいものである。  彼は眼鏡をはずして、くるくる回る風景を眺め始めた。何をしているのかと訊ねたら、「見える世界を変えたいんだよな」とまた小難しい返事が返ってくる。  しかし何かの可能性を模索する青年の横顔は、なかなか鑑賞に堪える憂いを帯びていた。眼鏡を外すと、ほんの少しだが中性的な印象を受ける。  彼から見える世界が変わったかは分からないが、僕から見える彼の姿は、ほんの少しだけ変わった気がした。  そして、僕から見える世界もだ。  コーヒーカップの外で目まぐるしく回る秋の風景は、本当なら決して手に入らないものである。つまり特別で、だから美しい。輝きを目に焼きつけるように、僕は大きく瞬きをした。  できれば彼の悩みも解決に導きたいところだが……果たして女心を知りたい、というのは一体どういうことなのだろうか。夕方からの予定とはなんなのだろう。  気になるついでに、もうひとつ気がかりなことがあった。  天才発明家・海光町様によるこの画期的空間移動現象は確かに僕たちの可能性を無限に広げる素晴らしいものだ。  だが、何故僕はこの「吉祥寺」という場所に行き着いたのだろう。  意識を失う前に聞こえてきた海光町の言葉からして、彼が行き先を決めているのではなさそうだ。僕はコーヒーの湯気と「うやむや」になって、超次元移動をして二つの街の喫茶店間を移動した。  多分出入口は、コーヒーの湯気……。とすれば帰り道もなんとなく察しが付くような気もするが……。  しかし「コーヒーの湯気」、それだけが共通点ならば、帰りはまた全然見当違いの喫茶店に行ってしまうのではないか!?  もしやこれから始まるのは、日本全国喫茶店巡りの旅!? そんなのいつ帰れるか分かったものではない。  ……という事に、本来もっと真剣に悩むべきなのだが、僕というやつは結局熱海温泉が生んだ極楽湯けむりのまやかしなのである。真剣な悩みなどすぐに雲散霧消し、楽しい方へ楽しい方へとゆらゆら流れてしまうのであった。  目先の幸せに勝るものなし。モルモットと戯れ、リスと戯れ、猿に驚かされながら、僕たちは動物園の出入り口の方まで戻って来た。堅物眼鏡の相棒は、まだ難しい顔をしている。  土産物売り場には、可愛らしい動物グッズがてんこ盛りに並んでいた。  キーホルダーやボールペン、ハンカチ……微笑ましさ満載の商品の中にひと際楽し気なものがあり、僕は意気揚々とそれに手を伸ばした。 「ガオーーっ!」 「おわあああああっ!?」  土産物売り場にちょーカワイイ百獣の王の鳴き声が轟き、連れ合いは間抜けに腰を抜かした。園内にはいなかったというのに何故か堂々と陳列棚に並んでいたライオンの被り物は、僕の頭にぴったりフィットしている。  考え事をして上の空だった眼鏡っこは、可哀そうに呆然と尻もちをついてこちらを見上げていた。 「あ……あはは……ごめんごめん」 「……み、」  助け起こすため手を伸ばそうとしたその時だった。 「見えたっ……!」 「えっ」  眼鏡の奥の瞳がカッと見開かれ、青年はその瞳になにやら情熱的な炎を燃やし始めた。 「み、見えた……気がするっ、今っ!」 「え、な、何、なに!? あっ、閃き!?」 「た、頼む、そのまま……」  青年は尻もちをついたまま、ちょっと待ったのポーズで僕を制止した。どうやらこの謎の状況でインスピレーションを得たらしい。こんな恰好で閃くものなんて、そうそうない気がするけれど……。 「そのまま、片足を持ち上げてくれっ」 「は、はいー?」 「なんでもするって言ってくれたろう!? 今、このままその右足を、こう、持ち上げてくれ! それだけでいいから!」  またよく分からないことを言い出した。  青年は目を見開いたままブツブツと何か呟いている。ヘンな人極まりないが、本人は真剣そのもののようだ。 「えーと……こ、こう?」 「ああっ、もう少しで見えるっ、見えそうだっ」 「あの……」 「そのままもう少し持ち上げて、あと、俺のことめちゃくちゃ睨んでくれるか!? そっちの方が絶対いいと思うから!」  彼は多分、今この場所が、小さいお子様や家族連れがたくさんいる真昼間の公園だということを完全に忘れている。大声で僕にリクエストをしながら、最後に一言こう叫んだ。 「か、完全に見えたっっ!」 「……そう。……それで」  足をゆっくりと戻しながら、眼下の彼に微笑みかける。 「何色でしたの?」  そう訊ねると、真っ赤になって黙ってしまった。  せっかくの閃きが、消えてしまっていないと良い。  あんなにいい天気だった公園の上空には、いつのまにか灰色の雲が溜まり始めていた。  一雨来る前にと、僕たちは井の頭池に浮かぶボートの一艘に乗り込み、束の間の遊覧に繰り出した。ボートのオールが、曇り空を映す水面を柔らかく切りながら進んでゆく。 「……さっきは、すまなかったな」  無心でオールを漕いでいた青年は、今まででいちばん小さな声で、ぼそりとそう言った。笑い出したい気持ちを堪えながら、わざと足を組みなおす。青年は咳払いして目を逸らした。 「見えたんだって?」 「み、見てない、見えてないっ」 「そうじゃなくて、」  堪えていたのに、思わず笑みが零れてしまった。本当に分かりやすい反応をする奴だ。 「悩みは解決したのかって」 「……俺の中では、多分、」 「なんじゃそりゃ、煮え切らないな」  この男はまたおかしなことを言う。  自分の悩みが自分の中で解決して、他に何を悩むことがあるというのだろう。それではいつまで経っても悩みが尽きない。青年の言葉が難解すぎて、僕は腕組みをした。 「自分の中で解決してるならそれでいいじゃないか」 「俺の中では、そう……確かに解決してるはずなんだ。だが自分の中で百パーセントでも、他人が見たら三十パーセントの不正解に見えるかもしれない。もしくは、作り込んだはずなのに、形ばかりの虚構に見えるかもしれない」  つまり彼の悩みはこうだ。  自分の中で頑張って出した正解が、他の人には正しいと受け取ってもらえないかもしれない。本物を作ったつもりなのに、偽物のレッテルを貼られるのかもしれないと。  なるほど、一言でカタを付けると、それは不毛だ。  僕にはこの悩みの不毛さがよく分かる。伊達に観光地で、日がな一日見られているわけではない。 「あのなー、そんじゃ聞くけど、君は目の前にいるこの美少女が、実は男だって言ったら信じるかい? 実は人間じゃないって言ったら信じるのかい、」 「信じるわけないだろ」 「ほれ、そういうことだよ。見た人にとってはそれが真実で、それが本物なんだ。今の君にとっては美少女とボートに乗っているってことが真実だろう」 「まぁそりゃ、そうだ……」  ちゃぽちゃぽと、気の抜けた音を立てて、ボートはやがてゆっくり停止した。 「自称に意味はないってことだな」 「まさしくそうさ。心の内でいくらうだうだ悩んでも、瞳に映った時点で逃げも隠れもできないよ。偽物なんてどこにも居ない。君は絶対に、本物として見られるのさ。その人にとってのね」  秋の空は移ろいやすい。曇天はみるみる井の頭池の上空を覆い、やがて細かな水滴が水面を打ち始めた。  きっと熱海から流れてきた雨雲だろう。  僕は腕を伸ばして、反対の席の足元を探った。  周りのボートは急いで撤退をはじめ、広い池の上にはいつの間にか僕たちのボートの一艘だけになっていた。ボートの外へ紺色の傘を広げて、いっしょに入れるように身を起こす。 「眼鏡、濡れてないかい」  傘の中に招き入れると、青年は案外素直にありがとうと頷いて身を寄せた。岸に戻るためゆっくりとまたオールを漕ぎだす。  灰色にくすんだ池に落ちてゆく雨粒の音が心地よい。濡れた緑の濃い匂いが空気に混じって、体の奥の方まで沁み込んでゆく。  雨音に重ねるように、青年は静かな声で言った。 「アンタの事、最初は相当厄介な女に見えてたよ」  ふぅんと顔を上げると、眼鏡の奥のその瞳には、まっすぐ僕が映っている。  冗談っぽく唇の端を吊り上げて、彼は言った。 「今は、結構いい奴に映ってる。ま、俺の目には、だけど」        約束の時間になり、公園の入り口付近で僕らは別れることにした。  会った時は、大根芝居を殺伐とした様子で酷評されたりしたけれど、こうして相合傘をしつつ笑い合えるようになったのはなかなか感慨深いものである。  そのうち自分だけ傘の外に飛び出して、小雨に打たれながら青年は笑った。  そして思い出したように、何やら折りたたんだ紙切れを僕に手渡してきた。 「その傘、返しにそこに来てよ」 「何コレ」  ラブレターという雰囲気ではない。 「そこに地図が載ってるから。夜の七時に来て」 「なるほど、君の予定っていうのはコレだったのか」  折りたたまれた紙は、つるつるとして何かの宣伝紙のようだ。傘を落とさないように気をつけながら開いてゆく。下の方に、確かに吉祥寺駅の描かれた地図がちらりと見えた。 「言い忘れてたけど、そこが今日、吉祥寺でいちばん面白い場所なんだ」 「え、」  顔を上げた時には、青年はもう濡れた地面を蹴りながら走っていくところであった。 「ちょっと待って、名前くらい教えてよ」  雨音に負けないよう慌てて叫び、呼び止める。青年は遠くから、紙を指さすような仕草をした。 「そこに書いてあるけど、俺は」  どんどん強くなる雨脚の中で、彼の声ははっきりと聞こえた。 「鴫沢宮」  よもやこんな場所で出会うはずもないその名前に、僕はしばらくの間呆然と立ち尽くしていた。  ゆっくりと手元の紙に視線を落とす。 「舞台・金色夜叉」  そこには、見慣れた男女のモチーフとともに、そのような文字が書かれていた。
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