傘も心も盗まれて

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傘も心も盗まれて

     その日は朝から、シトシトと雨が降り続いていた。  なんとなく憂鬱になってしまう一日だ。私のような一人暮らしの男が、わざわざ自炊する気分ではなく、弁当を買って帰ることにした。  仕事を終えて、電車に揺られること一時間。駅を降りて二、三分の、大通りに面したコンビニに、私は入っていった。 「おや……?」  買った弁当と共に店を出たところで、小さな違和感に気づく。  入り口の傘立てに突っ込んでおいた、透明なビニール傘。右端に入れておいたのに、今は、左端に場所が変わっている。  いや、そもそもビニール傘なんて、誰のものでも同じような外見だ。これは私のビニール傘ではないのかもしれないが……。  他の傘は、いわゆるコウモリ傘ばかりだから、明らかに色や形が違う。ならば、この一本が私の傘のはず。  あるいは。  この傘の持ち主が、間違えて、私の傘を持ち去ったのではないだろうか。どこに傘を差したか無頓着な人間ならば、そういうミスを犯すこともあり得るだろう。  何者かが意味もなく私の傘を移動した、と考えるよりも、はるかに現実的な可能性に思えた。 「他人の傘を使うのは、少し抵抗もあるが……」  これは別に、傘泥棒には相当しないはず。そう自分に言い聞かせて、その傘を掴もうとした時。 「あっ!」  反対側からスッと伸びてきた手が、私の手に触れる。  それが白く艶かしい女性の手だと気づいた瞬間、私はバッと顔を上げて、手の主に視線を向けた。  私が傘立ての前で逡巡している間に、次の客が清算を済ませて店から出てきたのだろう。長い黒髪のよく似合う、顔も体つきも細めの女性だった。  私と同じく、二十代後半に見える。いかにもOLといった感じの、青みがかったグレーのスーツに身を包んでいた。  一瞬、見覚えがあるようにも感じたが、単なる気のせいだったらしい。会社の同僚にも、学生時代の知り合いにも、思い当たる女性は皆無なのだから。  彼女の手は今、ビニール傘の柄を握る私の手を、さらに上から包み込む形になっていた。そちらに視線を向けると、彼女は恥ずかしそうに、そっと手を引いてみせた。 「あの、ごめんなさい。この傘……。もしかして、あなたの傘ですか?」  彼女の問いに、私はどう答えるべきだったのか。とりあえず、正直に告げてみる。 「はあ。そう思ったのですが……。でも私の傘にしては、少し場所がおかしい。あなたもここにビニール傘を入れていたというのであれば、そちらの傘かもしれません」  頭の中では、少しだけ「困ったな」と考えながらも、微笑みを浮かべて対応する私。  見ず知らずの成人女性に対する表現としては失礼かもしれないが、彼女には、小動物っぽい可愛らしさが漂っていた。少しでもこちらが高圧的な態度を見せたら、過度に怯えてしまいそうだったのだ。 「はい。私、確かに、ここにビニール傘を差しておいたはずで……」 「では、あなたの傘で決まりですね。私の傘は、どうやら盗まれてしまったらしい」  そう言って、傘を手放して、私はコンビニに戻ろうとする。ビニール傘なんて安いものだから、ここで一本買っていけばいい、と思ったのだ。  ところが。 「待ってください!」  それまでよりも大きな声を出して、彼女が私を止めた。 「あの、私……。家に帰れば、別の傘がありますから。どうぞ、このビニール傘は、あなたがお使いください」 「いや、しかし……」  おかしなことを言い出す女だな、と思い、私は少し顔をしかめてしまった。  家に帰れば、と言うが……。そもそも、この雨の中を、彼女は傘なしで帰るつもりなのだろうか? 「心配なさらないでください。私の家、すぐ近くですから。というよりも……」  彼女は少し目線を下げて、言い出しにくそうな口ぶりで続ける。 「……もしも方向が同じでしたら、一緒に傘に入れていただけませんか?」  こうして、ひょんなことから私は、美しい黒髪の女性と相合傘で帰ることになった。  彼女が住んでいるのは、私の帰路にあるアパートだった。つまり、結構ご近所さんだったのだ。  ただ私としては、彼女がアパート暮らしというのは、少し意外に思えた。服装や雰囲気から、勝手に彼女のことを、オートロック完備のような女性専用マンションの住人だと想像していたのだ。  ところが実際には、むしろアパートの中でも安アパートの部類だった。特に彼女の部屋は一階なので、それこそ私のような他人でも簡単に扉の前まで行けてしまう、不用心な構造だ。まあ、この時は、おかげで部屋の真ん前まで送ることが出来た、とも言えるのだが。 「傘に入れていただき、ここまで送っていただき、本当にありがとうございました」 「いや、こちらこそ……」  傘を譲っていただいて、と言おうとしたのだが、彼女に遮られてしまう。 「あの、よろしかったら……。すいません、ちょっとだけ、ここで待っていてもらえます?」  慌てるような素振りで、部屋に入っていく彼女。  正直、私は「よろしかったら」と言われた瞬間、ドキッとした。部屋に上がっていきませんか、と誘われるかと思ったのだ。  さすがに、そこまで警戒心の薄い女性ではなかったらしい。いや、もちろん、そういう誘いは丁寧にお断りするつもりだったし、仮に断れなかったとしても、紳士的に振る舞うつもりだった。「据え膳食わぬは……」とは思わないし、送り狼のような行動に出る気も一切なかったのだ。  ……などと考えている間に、再び、ガチャリとドアが開く。 「あの、これ……。今日のお礼です。お口に合うかわかりませんが……。今晩のおかずの足しにしてください」  彼女が差し出したのは、蓋の青い透明なタッパー。中身は、野菜の煮物のようだった。 「いや、こんなものをいただいては……」 「いえいえ、そんな立派なものじゃなくて、冷蔵庫に入れておいた作り置きですから。どうぞ、遠慮なさらずに」  そこまで言われては、断るのも気が引ける。ありがたく受け取って、私は、家へ向かうのだった。  帰宅後。  電子レンジ対応の容器だったので、そのまま温めて。  コンビニの焼肉弁当と並べて、テーブルの上へ。  蓋を開けると、なんとも美味しそうな香りの湯気が立ちのぼる。  里芋と筍の煮っころがし。赤い人参と緑のさやえんどうも入っており、彩りも鮮やかだった。  食べてみると……。 「うん、美味い!」  という言葉が、自然と口から漏れる。ほっぺたがニンマリとするのが、自分でもわかった。  みりんをたっぷりと効かせているらしく、かなり甘めなのだが、それでいて、御飯が進む味付けだ。こんなことならばコンビニ弁当ではなく、自分で白米だけでも炊いておけばよかった、と悔やむくらいだ。  結局。  私は冷蔵庫から買い置きのビールを取り出して、おかずというより、むしろおつまみとして食す形になった。 ――――――――――――  翌日の夜。  雲ひとつないほど晴れ渡った、月のきれいな空の下。  私は、彼女のアパートへと赴いた。近づくと、窓から漏れる部屋の灯りで、彼女の在室が確認できる。  チャイムやインターホンのようなものは見当たらなかったので、トントン、と扉をノック。すると中から「はーい!」という声と、バタバタとした足音が聞こえてきて……。 「あら、こんばんは。昨晩は、どうも」  ドアを開けて顔を覗かせた彼女は、おそらく、もう部屋でくつろいでいたのだろう。完全に化粧を落としており、前日のOLらしさは、すっかり消えていた。  まるで、田舎から出てきたばかりの、純朴な女子大生に見える。それは地味な可愛らしさであり、むしろ私には、好ましく思えた。特に、彼女の手料理を食べた後だけに、いかにもあの味付けに相応しい、と感じたのだ。 「いえいえ、こちらこそ、ありがとうございます。とても美味しかったですよ」  と言いながら、私は(から)のタッパーを差し出す。  私の訪問目的は、容器の返却だった。同時に、何かお礼をしなければ、という気持ちもあったのだが……。  それを私が口にするよりも早く。 「まあ! 喜んでいただけたのでしたら、私も嬉しいですわ! 自分の作ったものを『美味しい』って言って食べてくれる人がいるのって、本当に幸せですもの!」  満面の笑みで空容器を受け取った彼女は、 「すいません、ちょっと待っててくださいね!」  と言い残して、また部屋の中へ。  少し既視感があるな、と私が思う間に、彼女は戻ってきた。 「これ! どうぞ召し上がってください!」  彼女が嬉しそうに渡してきたのは、ピンク色の蓋をしたタッパー。パッと見た感じでは、やはり野菜料理らしい。 「……」  断ろうか受け取ろうか、一瞬だけ迷ってしまったが。  これは彼女の「食べてもらって嬉しい」という気持ちなのだから、素直にいただいた方が、彼女を喜ばせることにもなるはずだ。  そう思って、また、ご馳走になるのだった。  家に帰って開けてみると、今度のメニューは中華風の野菜炒め。もやしとキャベツがメインで、人参とピーマン、豚肉も入っている。  シャキシャキとした歯ごたえが素晴らしく、やはり御飯に合う一品だった。この日は、弁当ではなく、自分で米を炊いておいたのだが……。  もしかすると、そう用意した時点で、私の中にも「また彼女の料理をいただけるかもしれない」という期待があったのだろうか。 ――――――――――――  二度あることは三度ある、という言葉があるように。  容器を返しにいって、代わりに新しく一品もらってくる、というのは、毎晩の恒例行事になってしまった。  彼女は楽しいのだとしても、私の方では「これでは世話になりっぱなしだ」という気持ちも生まれてしまう。  だから、金曜日の夜。 「いつもいつも、ありがとうございます。つかぬ事をお尋ねしますが、週末って忙しいですか?」 「……え?」 「もし時間があれば、毎日ご馳走になっているお礼として、食事を奢らせてもらいたいのですが……。いや、お礼の食事といっても、高級レストランではなくて、どこか庶民的なお店で……」  思い切って、彼女を誘ってみた。  もう学生ではないし、これくらいの提案は簡単。そう思っていたのだが、いざ口にしてみると、心臓がバクバクだった。改めて考えてみると、大学卒業後、女性を誘うのはこれが初めてなのだから、緊張するのも当然の話だろう。 「あら、まあ、そんな……。どうしましょう。別に私、見返りを求めていたわけじゃないのに……」  唇に手を当てた彼女の、遠慮がちなセリフ。しかし、その幸せそうな笑顔を見れば、もはや返事はわかりきっていた。 「……でも、嬉しいですわ! あなたからデートに誘われるなんて! はい、喜んでお受けします!」  彼女が『デート』と言い表したように。  これが、私たちの初デートとなった。 ――――――――――――  少し蛇足になるかもしれないが。  その後、彼女と初めて結ばれた夜のこと。事後の気だるい幸せに包まれながら、ベッドの上で抱き合っていると……。 「実は、私……」  彼女が、ちょっとした告白を口にし始めた。  そもそも彼女は、以前から私のことを、通勤電車の中で何度も見かけていたのだという。  そして、言葉を交わす機会もない私に対して、なんとなく好意を抱いていたそうだ。いわゆる一目惚れというやつだろうか。 「それでね。知り合いになるきっかけを作りたくて……」  あの日、コンビニに入っていく私を目にした彼女は、後を追うように入店した。傘立てのビニール傘の位置を、少し動かした上で。  私が「これは自分の傘ではないのかもしれない」と悩み、彼女と相合傘をすることになった、あの出来事。あれは全て、彼女が仕組んだ計略だったのだ!  あのビニール傘は本当に私の傘であり、彼女の傘は、あそこにあったコウモリ傘の一つ。それは、次の日に回収したという。 「ごめんね。こんな策を弄するような女……。嫌いになった?」 「そんなわけないだろ。それだけ強く想ってくれていた、ってことじゃないか。むしろ嬉しいよ。可愛いなあ」  そう言って、彼女の頭を撫でる私。  やわらかな黒髪の感触を楽しみながら、ふと考えてしまうのだった。  ああ、私の心は、もうすっかり彼女の虜になっているのだな、と。 (「傘も心も盗まれて」完)    
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