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殆ど一睡も出来ないうちに夜が明けた。寒さにこわばった身体をほぐしながら立ち上がると青年は洗面台へと行って手と顔を洗う。幸い表は朝から晴れていて風もなく小春日和が予想された。「さて…どうするか」青年は独り言ちた。馴染んだ桜木町、掃部山公園まで来たはいいが当地に友人や知り合いなどおらず、いやそれどころかそもそも青年には端っから友人など一人もいなかったので、家出の当初から極まるしかなかった。水飲み場で水を飲んだり散策を装ったりベンチに腰掛けたりして時間をつぶす。その間妙案を練ったが何も浮かばない。ただひとつ家におめおめと帰ることだけはしたくなかった。必死になって方途を探るうちに眠気がさして来る。昨晩は寒さと興奮の内に過ごし殆ど寝ていない。いつの間にか青年はベンチの上で寝入っていた。やがて何かの音か気配で目を覚ます。カラスが飛び回っていたのでこいつが何かしたか、とにかく青年は立ち上がって大きく伸びをするとやおら歩き出し、高台からハマの巷へと降りて行った。何かの本能かあるいは超常的な誘いでも受けたものか、横浜公園辺りを通って横浜中華街へと向かって行く。なんとなく『飲食街に行けば住み込みの仕事があるかも知れない』と思い浮かんだのは確かだが、それだったらより近く、馴染みのある伊勢佐木町界隈か馬車道辺りへ行きそうなものを、なぜかその名前と存在だけは知っていたが一度も訪ったことなどない中華街へと足が向かっていたのだ。港高校側から中華街へと入って行く。左右に点在する横文字看板を掲げた米軍相手の飲み屋街をめずらしげに眺めながら善隣門の前に立った。もちろん往時は名前など知りもせず、始めて目にするエキゾチックなその門の構えと中華街大通りの店々に青年は圧倒されるばかりだ。時刻はいつの間にか昼時になっていて通りからはこちらもエキゾチックな中華料理のいい匂いが漂って来ていた。その匂いに誘われるように大通りに入って行くと案の定と云うか、幸いにと云うべきかあちらこちらの店々の入口に〝コック・ボーイ募集、通住可〟の張り紙が貼ってあった。余りにも大仰な構えの大店は気が引けたのでそれほど大きくはないがしかし個人店とは明らかに違う、間違いなく雇人を使っていそうな、由緒ありげな中規模の店へと入って行った。「いらっしゃいませ」受付けの麗人が迎えてくれる。さても何と切り出したらいいものか青年は一瞬でも逡巡気味である。
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