<8・Beelzebul>

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「あっ!」  やがて、一冊の本が、まるで誘われるように転がり落ちた。ロザリーは大きな物音に驚き、床を転がったそれを追いかける。そして、バサリ、と開かれたページを見て目を見開いた。  蠅だ。  その本には、片面に巨大な蠅と――大量の蛆虫の絵が描かれていたのである。ロザリーは本を拾って、まじまじと観察した。 『蠅の王の意思』  そこには、そんなタイトルで論文らしきものが書かれていた。内容はざっくりこんなかんじである。 『ベルゼブルは、元々は正しき神であったという説がある。今でこそ蠅の王、糞の王などと揶揄されるが、元々はバアル・ゼブル、すなわち「気高き主」という意味の名で呼ばれる存在であった。嵐と慈雨の神バアルの尊称の一つである。 パルミュラの神殿遺跡でも高名なこの神は、冬に恵みの雨を降らせる豊穣の神であったのだ。  しかし一説によるのならば、この神の崇拝者達が豊穣を祈るべく性的な儀式を行っていたせいで、神の存在そのものが忌み嫌われる契機を作ってしまったという。イスラエルの地に入植してきたヘブライ人達がこれらの儀式を忌み嫌い、この神を頃の似たバアル・ゼブブ=蠅の王と呼んで蔑んだらしい。詳しい経緯は謎だが、これらの出来事が神であったはずの存在を“悪魔”の一柱に落としたのであろうことは想像に難くない。  つまり、この悪魔は。神聖なる神としての顔と、汚れた悪魔としての二面性を持つとも言えるのではないだろうか。人の善と悪の両面を知り、清らかなだけの手ではけして出来ぬ偉業を成し遂げ、真に人々を救うことができるのは。清らかな手しか持たぬ主ではなく、かのような存在ではないかと私は考えるのである。  ベルゼブルを呼び出し、愚かな道に走るばかりの人類に対して正しい導きを与えることができれば。  この世界は、イエスでさえも導くことができなかった真の平和を実現することも可能なのかもしれない。  問題があるとすればただ一つ。  我々のような矮小な人間では、蠅の王を完全にこの世に顕現させることは極めて難しいということ。  出来るとしたら、王の意思を分割し、人の身に宿すことだけなのではあるまいか。』 ――悪魔の意思を、人の身に宿す……!?ど、どういうこと!?  本を持って立ち上がろうとしたロザリーは、足を何かに引っ掛けてしまい、危うく転びそうになった。何だ、と思ってみれば。カーペットに、不自然な切れ目があるのである。ランタンで照らしたロザリーは瞠目した。明らかに四角く区切った区画。まさか、と思ってそれをはがしてみれば――引き上げる取っ手がついた、地下への入口が現れたではないか。 ――こ、これってまさか……! 『そうそう、ロザリー。サディアス様に聞いたかしら?……開かずの間のこと』 『入口が隠されてるんですって。だから普通に掃除するだけならまず気づかないらしいわ。何にせよ、万が一入口を見つけてしまっても、絶対に入らないように言われてるの。私も既にやめてしまった前任のメイド頭に言われたし、その人も先輩に聞いたという話だから』  ヨハンナの言葉が蘇る。まさか、此処がそうなのか。だとすれば、あのメイドの少女が真に目指していたのはこの“秘密の地下室”であったのかもしれない。  ずきり、と腸に痛みが走る。まるで急かすように、腹の中で何かが脈打つ。 「い、痛いっ……ううっ……」  迷っている場合ではなさそうだ。意を決して、ロザリーは取っ手に手をかけた。この先に待っているのだろうか――“優しい一家”の真実というやつが。
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