被った猫はベールの代わり

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被った猫はベールの代わり

 雨だわ。  秋風を思わせる声が耳を打った。掠れた、けれどよく通る声に、即座に傍へと寄る。もはや習性と化したそれを彼女が気にとめることはなく、膝上の本へ視線を落としたままだ。  雨だわ。もう一度彼女が呟く。一声かけて前を横切り、格子窓から外を覗く。けれど、地面には水滴一つ落ちてはおらず、乾ききったままだった。空も青い。  何を言っているのかと、椅子に座る彼女を振り返る。細く白い指先が紙をめくる。かさついた音をたて開いた頁へ視線を滑らせて、彼女はおもむろに本を閉じた。挟み込まれなかった深紅のスピンが、背表紙の前で揺れる。 「洗濯物はいいの?」  短く言って、彼女はサイドテーブルへと本を置く。金箔で刻まれたタイトルが、差し込む日差しで光を放つ。どう見たって、雨が降りそうには見えない。 「雨、降ってませんよ?」  心労でついに変なものが見えだしたか。不敬なことを考えつつ問いかける。何を思っているかわかったのか、彼女は唇の片端だけを上げた。 「もうすぐ降るのよ」  匂わない? と言って、彼女は白い指先を天井に向ける。つられて顎を上げ、鼻先をひくつかせたところで、落雷が聞こえた。弾かれたように窓の外へ視線をやる。ガラスの向こうでは、轟々と音をたて雨が降っていた。乾いた地面に水玉が広がり、すぐに土の色は濃くなっていく。  驚きに身を占められたまま、室内へと視線を戻す。安楽椅子の彼女は、薄灰色の瞳をゆるりと細めていた。ね? かさついた声が耳をなぞる。 「……そんなに鼻よろしかったですか?」 「あなたと二人だからじゃないかしら。ここに来てからだもの」  それよりいいの? 首を傾げながらお嬢さまが問う。胸元に流した金色が、音もなく揺れる。何がです、と聞き返す前に、彼女はその紅色の唇を開いた。 「洗濯物。今日はシーツを干していなかった?」  朝、必死の思いで物干し竿にかけた白いシーツが蘇る。いつも優雅に、穏やかに。口酸っぱくメイド長から言われる言葉はどこへやら。私は大慌てで部屋を飛び出した。  なんとかシーツを取り込み部屋に戻ると、お嬢さまは椅子に座ったままじっと外を眺めていた。額の水滴を拭い、窓際へと歩み寄る。ブーツがたてる音が聞こえているだろうに、彼女は外に目をやったままだった。  春のはじめといっても、雨が降ればやはり肌寒い。背筋に寒気が走り、カーディガンを勧めようかと口を開く。けれどそれは、お嬢さまの声によって押し止められた。 「エリス、覚えてる?」  何を、とは言われなかった。けれど、しとどに降る雨を見つめる大きな瞳に、何かなど聞かなくてもわかってしまう。 「お嬢さまに、猫を被れと言われた日のことですか?」  振り返ったお嬢さまは、薔薇よりも赤い唇を弓形にしていた。正解だと、何も言われずとも悟る。 「その言い方じゃ、まるで私が脅したみたいじゃない」 「あら、違うんですか?」  やったことは誘拐犯に近かったですけれど。付け加えた声に、彼女は瞳を日向の猫のように細める。薄暗くなった室内で、その両の灰色はいつもより色濃く見えた。 「たしかに攫ったのかもしれないわね。あまりに好みな野良猫ちゃんだったから」  視線が動く。顔から首、胸元、足へと移動したそれは、最後に私の手へと向かった。体を隅々までなぞられるような感覚に、指先に緊張が走る。  声無き声が三文字を刻み、私は椅子へと近づく。白い手が、水仕事で荒れた手に触れる。冷たい手は重なったところから熱を吸い取っていくようで、思わず微かに息がもれた。 「消えなかったわね」  親指の付け根から手首へと、甲に残った傷痕が撫でられる。ミミズのような傷を行き来する指先を見つめる私の脳裏には、外の雨よりは淡い、霧雨が降っていた。  黒い髪と瞳を持つ母は、東の島国からの留学生だった。遠い異国出身の母は、寄宿先の家で催されたパーティーの席で、父と出会ったという。  貴族の家系に生まれ、何不自由なく育った父は、珍しい物を好み、蒐集することを趣味としていた。一度欲した物は手に入れなければ気が済まない性格の彼は、この国では珍しい黒を纏う母に惹かれ愛人にし、そうして生まれたのが私だ、という。どこまで正しいかはわからない。物心ついた時には、屋根も壁も朽ちた、辛うじて家の体裁を保つ場所で、母と二人で暮らしていた。  慣れない異国生活が祟ったのか、もともと体は強くなかったのか、母はいつも床に伏せっていた。土気色の肌に骨と皮だけの体。父の目を引いたという髪は艶をなくし、瞳は落ち窪む。それでも恨み言一つもらさなかった彼女は、秋のように涼やかな風の吹く夏の日にその命を閉じた。  顔も名も知らぬ父には頼れない。唯一の拠り所を亡くし、私は独りになった。貧民街にも横の繋がりはあるが、他と異なる私を街の人が受け入れることはなかった。  消えることのない喪失感と孤独。生きる目的すらなく、それでも空腹を訴える体に、苛立ちよりも虚しさが襲う。耐えかねたのは空腹か虚無感か。自棄のように果物屋台から林檎を盗んだ私は店主に捕まり、血が出るほどに殴られ、道端に捨て置かれた。そんな、泥と血と痣だらけの私を拾ったのが、お嬢様だった。  夏の終わり、冷たい小雨が降る日だった。  雨の中郵便屋が届けたのは、一通の手紙だった。  飾り気のない、けれど一目で上質とわかる封筒を裏返す。赤い封蝋に描かれていた紋章に、思わず手に力がこもった。  手紙を手に階段を上り、一番奥にある部屋へ向かう。お嬢さまは、背もたれから少し身を起こし、先ほどと変わらず外を眺めていた。 「郵便でした」  声をかけながら、窓辺の彼女へと歩み寄る。黒い編み上げブーツの踵が、古びた床を叩く。 「また? 婚約者さまかしら?」  さして興味もなさそう声でお嬢さまは呟く。差し出された手に手紙を乗せれば、彼女は躊躇いもなく指先で開封した。紙が破れる鋭い音に、ペーパーナイフを取りに行くのをやめ、そのまま隣で待機の姿勢をとる。 「一ヶ月後が待ち遠しくてたまらない……ですって。毎度毎度同じ。恋の国の貴族が呆れちゃうわね」  視線を上げたお嬢さまは、指先で便箋を挟み、こちらに掲げてみせる。深緑の罫線の上では、流麗な文字が踊っていた。  一ヶ月後、お嬢さまは隣国の公爵家へ嫁ぐ。今頃屋敷では、使用人総出で結婚に向けての準備が行われているだろう。本来なら、私も準備に追われているはずだが、故郷を目に焼きつけたいとのお嬢さまの希望で、二週間前からこの別荘に赴いている。保養にと、季節の変わり目ごとに主人様一家皆と数名のメイドで訪れていた別荘にいるのは、お嬢さまと私のみ。それは過ぎる喜びのようにも、何かの罰のようにも思えた。 「……それほどお嬢さまのことを好いておられるのですよ」  口にした声はひどく平坦だった。鼻でひとつ笑ったお嬢さまは、便箋を丁寧に畳むと封筒へ押し込め、テーブルの本の上へと置いた。  カナエ。  もはやお嬢さましか呼ぶことのなくなった名が口にされる。母の故国の響きだというそれは、なぜか彼女の声に馴染んで聞こえる。 いつもの合図に、後ろでシニヨンにしていた髪を解く。巻きつけてあったせいで波打つ黒は、胸元へと音もなく垂れた。 「レーネ」  名前を呼べば、彼女はひとつ長い瞬きをした。薄い瞼の下から現れた硝子玉は、微かに水をたたえている。  肘掛けに手をつき立ち上がると、レーネは私の手を取り、壁にヘッドボードを付けるように置かれたベッドへと連れて行く。促されるまま並んで腰を下ろせば、今朝シーツを替えたばかりのマットレスは、柔らかく沈み込む。足をベッドへ上げた彼女は、左側の髪を耳にかけ、私の膝の上へと頭を乗せた。たしかな重みが太腿から伝わってくる。 「ねえ」  雨音に紛れるほど小さな声が耳を震わす。何を、も、どうして、もない。けれど魔法にでもかけられたかのように、私の手は彼女の髪へと向かう。薄闇の中でも輝いて見える金色は、生まれたての赤子のような手触りだった。 「相変わらず好きだね」 「だめ?」 「屋敷の皆が見たら驚きそう」  声にのせてから、しまったと思った。案の定、レーネは鋭い視線で私を見上げている。 「カナエ?」 「はいはい、今は猫は外すよ」  レーネは満足そうに鼻を鳴らし、瞼を閉じた。下向きに生えた長い睫毛が、頬へ影を落とす。もっと、と言うように頭を押しつけてくる彼女に声なく笑って、私は指通りの良い髪を撫で続ける。  小雨の中私を拾ったお嬢さまは、ちょうど遊び相手が欲しかったのだと言い、手ずから私を風呂に入れ、身なりを整えた。  どれだけ繕っても泥は泥だと、帰せと騒ぐ私に、黒髪を梳かす彼女は「猫を被れ」と言った。泥でしかないのなら、側を磨いて欺け、と。そうして新しい名を与えられ、教養を身につけた私は、常に本来の姿を覆い隠し、彼女の隣に立っている。  思えば、あれはお嬢さま自身のことを指してもいたのだろう。猫を被れ、と言った彼女は、その実誰よりも濃く自身を塗り潰していた。そんな、猫を被った一人と一人は、二人の時本来の自分へと戻る。自分にしか見せられない、美しい彼の人の普段とは異なる姿。それは私の心を惑わせるには充分すぎた。  目を瞑り髪を撫でられるレーネは猫のようで、耳を澄ませば喉を鳴らす音が聞こえてきそうだった。布越しに伝わってくる体温に、喜びよりも寂寥が勝る。あとどれだけこうして過ごせるのだろう。ふと浮かんだ憂いは、心に黒いインクをたらす。  嫁ぎ先には、メイドを数名連れて行くことができる。けれど、出自もはっきりしない、浮浪児あがりの私が選ばれることはまずない。変えようのない事実が胸を締めつける。一滴たれただけの黒は際限なく広がって、心を埋め尽くしていく。 「……何か考えてる?」  鼓膜を叩く声に目を開ける。レーネは横目で私を見上げていた。膝の上で体勢を変えた彼女は、前へ垂れた私の髪へ手を伸ばす。白い指先が黒を捕らえる。 「何も」 「うそ」  責めるような双眸に見つめられ、私は顔を背ける。見た目より強く摘まれていた髪は離れることはなく、頭皮に鈍い痛みが走った。 「レーネには関係ないから」  呟いた瞬間、笑い声が部屋に響いた。どこか嘲るようなそれに、思わず視線を戻す。見下ろす彼女の顔には、夜の街に飛ぶ蝶のような、蠱惑的な笑みが咲いていた。雨闇の中で陰の下りた笑みに、背筋に痺れが流れる。 「関係ない? 本気で言ってるの?」  是と答えることなど許されない問いに言葉を詰まらす。固まる私に、レーネは目の端を幾分和らげた。 「あの雨の日から、あなたは私のもの。髪の毛一筋から、爪のひとかけらまで全部」  わかってる? と問うように、レーネは指先に力を込める。髪が擦れる微かな音が空気を揺らす。  置いていくのに? 聞きかけて、けれど声には出せずに口を噤む。噛み締めた拍子に切れたのか、口の中に僅かに血の味が広がった。私のもの。そう言った彼女はすべてお見通しなのか、幼子に向けるように淡い笑みを唇に滲ます。 「離れてもよ。だって、私の心はここに置いていくんだから」  薔薇よりも百合よりも、満天の星空や宝石よりも。記憶にあるどんな美しいものより綺麗に笑った彼女は、腕を引き、私の顔を自らへと近づける。吐息のかかる距離。触れ合った唇は一瞬で、けれどその熱はたしかに私の心へと棲みついた。 「約束」  囁いて、レーネは花が咲き崩れるように微笑みかける。エプロンドレスの上では、金色の髪が波のように広がっている。白の中で泳ぐそれを目に焼きつけるように、私はひとつ瞬きをした。
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