1人が本棚に入れています
本棚に追加
エピローグ
次の日。
さっさと帰ればいいのに、スケジュールで日程が組まれてしまっているため、まだ城に滞在しているマチアスと、クーネルは中庭のばら園をともに歩いていた。
「どうした。元気がないようだな」
「べつにそんなことないけど――って……」
マチアスが自分を気にかけるなどおかしいと思ったら、彼は腕の中のくまに懸命に話しかけているところだった。
「なんだ、婚約者? おまえになど話しかけていないぞ」
「うるさいわね……間違えたのよ」
気まずさにそっぽを向いて腕を組んで、クーネルは話題を変えた。
「あんたさぁ、くまさんをどんなに好きでも、おしゃべりできないじゃん。それでもいいわけ? この先ずーっと、一方的に話すだけなんて」
「くまさんではなくリリーだ。それに、会話は可能だ。毎日話している」
「えっ? そうなの? ぬいぐるみだけど……」
「リリーはちゃんと生きている。余にはわかる、彼の声がはっきりときこえるのだ。彼も余がたいへん気に入っていると言っている」
「……え、そうなんだ。……いやきこえないでしょ」
「きこえるのだ!」
ぷんすかと怒りはじめるマチアスに、まるで昨日怒ったこともどうでもよくなってきて、クーネルは笑った。マチアスは怒りの沸点がかなり低い。これまで、ぬいぐるみのことで周囲からよく言われていないせいで、誰も自分のことを理解しないと思っているのだ。
彼の腕に抱きしめられて苦しそうにしているリリーは、おなかや腰を、幾重ものフリルのひだに包まれていた。薄いピンクのワンピースの上に、真っ白のエプロン。すぐに汚れがつきそうな色なのに、よく手入れされ、清潔に保たれている。
「その服、かわいいね」
「わかったか? これはお出かけ用なのだ。今日のために手塩にかけ、三週間かけて縫い上げた。特別仕様だ」
「すごい気合い。でもリリーって男の子なんでしょ」
「男だとか女だとかそんなものは重要ではない。リリーは余のかわいい伴侶だし、どんな衣装でも似合うから、いろいろと着せてやりたい。それだけだ」
「たしかにそうね……」
生き物である生身の人間と、繊維で作られたぬいぐるみ。両者にとって性別なんて、ボタンから飛び出た糸のように些末なことだ。
「はぁーあ、この散策が終わったらようやく自由時間だ! 図書館で次に読む本を探さなきゃ」
「それ、余も行きたい。裁縫の専門書はあるか?」
「もちろん。トワール国の図書館の蔵書は、どの国よりも優れているわ。利用者のニーズに遺憾なく応えているし、王立図書館として必要なものも無駄なく取りそろえて、学術的にもアカデミーより充実してるわよ。なにしろ、お兄さまが館長をしてるんだもの!」
「兄君と仲がよいのだな」
「ぜんぜんよくないけど……」
「余は兄姉たちに厭われている」
互いに結婚する意思がない婚約者とはいえ、幼少期から幾度も会っているマチアス。周囲から理解されない彼のことを、クーネルもまた理解できていないし、今後も寄り添えることはないだろう。けれど、彼にとって、少しでもこの会話がほっとできるといい。
「自国では余の味方はいない。皆、厄介者を早く追い払いたいという目をしている。だから余は旅が好きだ。だが立場上ずっと放浪をするわけにはいかない。せめて、ずっとここにいたいのだ」
「……でもわたしと結婚しないと、ここには住めないわよ」
「それが問題なのだ。おまえと結婚したくない」
ばらのかおりに包まれて、少年はぬいぐるみをよりいっそういとおしそうに抱きしめた。
「余の心は、永遠にずっと、リリーのものなのだ。な、リリー?」
ああ、とクーネルは思った。
リリーを見つめるマチアスの瞳。命を差し出しても惜しくないとささやく本気の目の色。
リリーのまんまるの、天然樹脂コーパルを加工して作られた、生きているみたいな目。その琥珀色の瞳には、いつも反射してマチアスが映し出されている。
ルイ先生を見つめる、シャーリーの瞳。シャーリーを見つめる、ルイ先生の瞳。
羨ましかった。
彼らは周囲にどう思われるか、他人からの評価など歯牙にもかけない。自分の心のほんとうを、真実の愛を迷わずに見つめる。すこし寂しい。誰の心も、どんな瞳も、まだクーネルには向けられていないのだ。
そのとき、
『マチアス』
リリーの鼻先あたりから声がした。
クーネルは二歩下がって、背中を薔薇の花壇にくっつけていた。指に棘が刺さったような痛みが走っていたが、今はそれどころではない。跳ねるようにして、マチアスの目の前に舞い戻る。腰をかがめ、背の低い婚約者に合わせた。
「いま、しゃべった~!?」
「きこえたのか? おまえにも」
「うん……!」
「リリーの声がきこえたのは、余の他ではおまえが初めてだ」
びっくりしすぎたクーネルの頭から、細かい迷いごとや不安が消し飛んで、ただただリリーのコーパルの瞳と柔らかい茶色のほっぺ、赤い鼻をまじまじと見つめた。
その声は本当に男性の声だった。マチアスより低く落ち着いて、だいぶ年上のようだ。種族の違いだけではなく、年の差の恋でもあるのか。
ほほえましく暖かくほろにがい。少女の好奇心が角を生やして、気持ちは飛ぶ。ぐんぐんと、真夏のひまわりのように。
最初のコメントを投稿しよう!