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第4話
ぬめぬめとした石鹸水を身体に残しながらも苦笑いし、立ち上がったシャーリーは頭を掻いた。
「姫も、ルイを助けにきてくれたのですか」
「そんなんじゃないわ! よ、夜の散歩よ、散歩! ほら、わたしって侍女がいっぱいしてなんでもしてくれちゃうし、ちょっと運動不足でしょ、足腰鍛えなきゃいけないと思って。夜中に本を読みながらおせんべいや柿ピーを食べてしまったから、食後の散歩してるの!」
シャーリーはうれしそうに肩を揺らして笑った。危険だから帰れと、真剣に咎められると思っていたので、意外な反応だった。むしろシャーリーはこの再会に心からほっとしたように喜んだ。
「本当は貴女に一緒に来てほしかったんです。クーネル姫は優秀な魔法の使い手ですから。しかし、従者の端くれとしてクーネル姫をむざむざ危険な目に遭わせるわけにいきません。迷ったあげくついに言い出せず、あんな格好付けた、すかした発言をしてしまいました。思い出すだけで顔からカレーが飛び出そうです……」
彼のたとえがよくわからなかったが、シャーリーは無類のカレー好きで、休暇のたびに他国にご当地カレーを食べに行ったり、週末には必ず手作りカレーを作っていると聞いたことがある。カレーが好きなことだけは伝わってきた。クーネルは薄目になった。
「そう、きっと激辛カレーなのね」
「しかし! ご自分の判断でご自由についてきたのだったら、なんの心配もありません。いえ、ついてきたのではなく単なる散歩でしたね!」
「え、えぇ……………」
心によぎるものは幾つもあったが、今はこだわっている時ではないので、抑えた。
「それにしても、貴方、とうの昔に先に行ったものだと思っていたわ」
「道に迷ったんです。魔女の気配がわからないので」
「一人じゃ、遭難してたかもしれないわね……」
助太刀にきてよかったとクーネルは息を付いた。
魔女の気配をたどって森林の道なき道を歩き、クーネルの先導で、泉のほとりに着くと、強大な魔女の気配が霧のように濃く立ちこめた。コバルトブルーの泉の上には、目に見える光る粉がチラチラと舞っている。ピンクとオレンジを混ぜた、マナルーンの葉と同じ色。夢の中のようだ。神聖な雰囲気に心が安まる。
眩しそうに目を細め、シャーリーは周囲を見渡してつぶやいた。
「これはいったい……?」
「ここは、とくに魔力が集まる場所なの。いわば魔法使いたちの聖地よ」
魔法の物質マナテルが集結している。普段は人の目には見えないそれらの粒子がこの神聖な場所でだけは可視化され、魔力を持たない人間もその神秘の一端を目撃することが出きる。
マナテルの光は、植物の胞子のように生命力に溢れ、美しく漂っていた。ふわふわと愉しげに浮遊する様子は、妖精が夢中でおしゃべりしているようだ。
クーネルはまだほんの幼いころに、一度だけここにきたことがあった。自分よりも背の高い人に手を引かれてやってきた。あのときに感じた静謐な気持ちが蘇る。
「ここに魔女がいると?」
「やつが自分の力を最大限発揮できるとしたら、ここだから」
きれいな光景に心奪われている場合ではなかった。魔女パドゥーシカがどこに身を隠しているかわからないのだ。
「ということは――ルイも」
胸に手を当て、シャーリーは愛しい人の姿を求めて目を周囲に走らせた。泉の向こう側に、かさっと葉のこすれる音がした。風は吹いていない。野生動物かあるいは――。シャーリーは泉を迂回して走り出した。
「待って、うかつに動くと危険……!」
「ルイ! いるなら返事を! 僕だシャーリーだ! 迎えにきたぞ!」
命を懸けてルイを助けると誓った彼に迷いは寸分もなかった。
森の中でもひときわ背の高いマナルーンの木。葉はびっしりとピンク色に生い茂り、気が狂いそうなほどに美しかった。
ふとい枝に鈍色の鎖で繋がれてぶら下がった、人間大の鳥かごに、ひとり分の人影が閉じこめられていた。丸腰の騎士だ。武装していない、部屋でリラックスしているときの軽装の、黒髪を後ろで一つにまとめたルイだった。彼は気を失っている様子で、鳥かごの鉄格子に背を持たれてだらりと力なく横になっていた。
「ルイ、ルイ!」
そのマナルーンの大木は神木のごとく、かごをつるす鎖と同じ種類のものがぐるぐると拘束するように巻き付けられていた。鎖を断ち切れば、重みで籠は地に落ちそうだ。血相を変えてシャーリーが金髪を振り乱し大木に駆け寄る。薄緑色の樹皮に手を延ばし触れそうになった途端、彼は白い顔に汗を拭きだし膝を崩した。
「その木には強力な結界が張られている。へたに触らないで!」
「ぐっ……! 無事です」
シャーリーは戦闘用のグローブを両手に身につけていた。ただのグローブではなく、火炎にも耐える構造をしたマジックアイテムだ。トワール国は魔法使いではなくても、このような様々な魔法具を身につけることで戦いに備えている。
ルイのこととなると正常に判断できなくなるシャーリーを見ていると、その愛は本物なのだと、恋を知らないクーネルにも、静電気を喰らうような強度で感じ取ることができた。
「クックック。アホ従者が、お姫様を迎えに来たようだのう」
そのとき、ひどくしわがれた魔女の声がして、クーネルとシャーリーはそろって身構えた。先制攻撃をしてくるなど卑怯なことはせずに、静かに葉音を鳴らして老女は泉のほとりから姿を表した。ついさっきまでいなかったのに、幽霊のようにぼんやりと輪郭が現れていき、やがて実体となって小柄な身体は湿地の草むらを水音を立てて歩いた。身体全体をすっぽりと、温かそうな紫色のローブに包まれていて身体のラインもわからなければ、目深にかぶったフードで表情も見えない。その両足だけは、むき出しの足首から下が晒されていた。
ひどく小さな足だった。同じく小さな五本の爪には、きれいな瑠璃色のペディキュアが塗られていたが、しかし茨の道でも踏み歩いてきたかのように皮膚は傷跡だらけでところどころ泥色に染まり、青い血管が浮き出て、痛ましかった。
凄腕の魔女は見た目を偽ることもできる。見た目だけでは実年齢はわかりにくいが、彼女は若く変身している様子が少しもなかった。
「お前がルイを! 目的はなんだ!」
「動機も理由もとくにない、ただの余興じゃよ」
シャーリーが殺気立ち、迷わずに腰の剣を引き抜いた。鋭い鋼の音が響き、クーネルは鳥肌を立てる。一歩、二歩と従者から遠のきながら、クーネルは自分も魔法の杖を構えた。
が、魔女パドゥーシカはなにごともなかったかのように、姿勢の悪い傾いだ背中を大仰に掻きながら答えた。
「なにしろ長生きで身体も丈夫だからそうそう死なないし、まじめに働かなくてもこの魔力があればいくらでも稼げるしで、基本暇じゃからのう。盗賊やら魔物やらと戦ってもみな弱くてわらわの足下にも及ばない。気楽におしゃべりする友達が欲しかったのじゃ。どうせなら顔のいい、好みの男がいいからのう、この者にしたというわけじゃ」
友達になりたい相手を拉致した非人道的なところから見ても、南の魔女の倫理観は崩壊しているようだ。シャーリーから殺気がふくれがある。
「待って。キレるのはあとにしてちょうだいシャーリー。いい? 南の魔女! あなたにはがつんと言ってやらなきゃ気が収まらないわ!」
「なんだおぬし……」
「わたしはクーネル! クーネル・エレガンテ・ラッフィナート・ド・トワール! もうお気づきかしら? そう、魔法少女にして姫で美少女という誰もが憧れる完璧超人。魔法の王国トワール国の皇女よ。趣味は読書と魔法の修行、それと――」
魔女は目深にかぶったフードを後ろに下げると、あらわになった髪をぞんざいに指で整えはじめた。長い前髪からのぞく暗い目じりには、永い樹齢を思わせる深いしわが刻まれている。
「って聞いてる!?」
「ああ、聞いていた。特にコメントが浮かばなかった」
「もっとわたしに関心を持ちなさいよ、これほど高貴で可憐な姿、めったにお目にかかれるものじゃないのよ」
「いや、んなこと言われてもべつにわし、地位とかてんで興味ないからのう……。あんたと話しても今のところおもしろくないし」
「なんですって! わたしは超絶面白いわよ! せっかくのチャンスなのに友達にならないなんて人生損、半分損、六割損!」
「面白いヤツは自分で面白いとか言わない」
とりつく島もなく、魔女は断言した。
「はーあ、トワール国を敵に回すのも面倒くさいし」
あろうことか魔女は背中をかくついでにお尻もあたりもぼりぼりと掻きはじめた。
「許せないーっ! あいつの眼中にも入れられてない! きーっ!」
「実にどうでもいいとはいえ、仮にもお姫さんに傷でもつけたらエライことになってしまう、面倒じゃ。あんたは一件が片づくまでそこでおとなしくしておれ」
「え!? うわーちょっと、待ってまだ話は終わってな」
「クーネル姫!」
魔女が一言、低い声でぼそっと呪文を唱えると、シャンシャンと空中のマナテルが反応して舞った。それはハープのアルペジオのように澄んだ美しい音楽だった。クーネルはあいた口がふさがらなくなり、手も足も動かない。身体の自由がきかなくなってしまった。魔女はただ動きを封じただけで、それ以上はなにもせずに無視を決め込み、覗いている口元をニヤリとさせた。
シャーリーは、魔女がクーネルには手を出すつもりがないと分かると、もうこちらを省みることもせずに、まっすぐに紫色のかたまりを見据えた。
「僕はルイを貴様から取り戻す! 必ず――」
「義や忠誠ではなく己の愛のために、騎士の剣をふるうか。ふむ、すこしは退屈しのぎになりそうじゃ!」
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