第5話

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第5話

魔女は紫色のルージュを塗った唇を、水面のようにゆがめる。 「けれど剣士が魔法使いに勝てるかな? こちとら最強だぞ」  クーネルは軍師向けの戦法術読本に記されていたことを思い出していた。彼女は活字中毒故に、物語以外にも勉強の本や実用書なんでも手当たり次第手に取るのだ。  魔法使いに打ち勝つには、相手に呪文を唱える隙をいっさい与えないこと。純粋な腕力勝負では絶対に剣士にかなわない。先手必勝で相手の懐に入ってしまえばこっちのものだ。  シャーリーも騎士なのでそれは先刻承知済みのようだ。跳ねるようにして小柄なパドゥーシカに詰め寄っていく。老女は青年の身長の半分しかないように見えた。魔女はマナテルを集約するための杖ももたず、指一本をくねらせた。 「臨界」  たった4文字、1秒にも満たない詠唱時間。青い炎がしわだらけの指から放たれた。重たい剣を抱えながらシャーリーはでんぐり返りで攻撃をよける。魔法の炎は、マナルーンの木々を燃やすことはしない。もともとは同じ元素でできている姉妹のようなものだ。草や枝に同化し、蒼く澄んだ光を放ちながら収束していった。  動きを封じられたクーネルは見ていることしかできない。勝負は圧倒的にパドゥーシカが優位だった。次々と繰り出される攻撃系の黒魔法。炎、氷、雷、毒。召還魔法もあればゴーレムを操るのまで一人で博覧会をしているようだった。そのどれもがおそらく強力な魔法。本来ならば長い詠唱を必要とする呪文、一回でもつっかえれば発動しない。しかしパドゥーシカは、簡略化した単語ひとつで済ませる。呪文の詠唱をしている間に攻撃を受けてしまう(全身で魔法に集中しなければならないため、俊敏に避けることができなくなる)という魔法使いの長年の弱点は、彼女には存在しないらしかった。  騎士として申し分ない体躯シャーリーだが、子犬が飼い主に遊んでもらっているかのようにころころと走り回って避けていた。これでは反撃する暇が一秒もない。援護できればいいのに、クーネルは指先ひとつ動かせない。口も開かない、人魚のようにものをいえない。鼻呼吸ができるのと、まばたきができる。許可された身体の自由はわずかそれだけだった。 「少しは骨があるヤツかと思ったが、それほどでもなかったのう……もう飽きた」  歯がたたないシャーリーを見やり、パドゥーシカは残念そうに頭上を見上げた。その間もひとときも攻撃の手を休めない。  がしゃがしゃと不安定な音を立てながら、大きな金網のかごが揺れて、中にとらわれている青年が揺さぶられた。 「ルイ先生!!」  シャーリーが鼻先をかすめながら炎を避け、叫ぶ。眠っていたルイはその黒目を開いた。なにが起こっているのか分かっていないようで、シャーリーとクーネルを交互に見て、最後に己の手を見返す。 「あなたは……騎士のシャーリーさん、ですか? これはいったいどういう……?」  ルイと目が合ったことで、シャーリーの目つきが変化した。肌でわかるほどはっきりと、スイッチが入った。変わらずにパドゥーシカの攻撃魔法は続いていたがもう彼の眼中になく、そのシャワーの中を突っ切って飛び込んでいき、籠の柱になっているマナルーンの鎖を剣で切り裂いた。大事故爆発のような金属音がして、クーネルは悲鳴を上げたかった、が、声も出せないので全身が寒気に包まれて一気に真冬の雪山に転送されたような気がした。クーネルは金属音がこすれる音がなによりも嫌いなのだった。  鎖が叩ききられて、じゃらじゃらと擦れて鎖がほどけていく。一気に落ちることなく、ゴンドラのようにゆっくりとルイの籠は地上に降りていった。  ルイの籠が地表に降りた瞬間に、駆け寄ろうとシャーリーはこれ以上ないほど速く走った。疾走する馬のごとく。愛の力とは人に通常の何倍もの力を与えるのだとクーネルは思った。シャーリーは籠の扉の格子をつかんで揺さぶるが、びくともしない。鍵が必要らしい。 「ふん、やはりおもしろくもない、男同士で好きにするといい」  ルイたちに対して一気に興味を失ったようで、パドゥーシカはあきれ混じりにきびすを返し、小柄な背中を見せた。足首まで覆い隠した長いローブが揺れる。足を動かしているようには見えないが、湖の向こうへ向かって移動していた。  諦めたと言うよりは飽きたようで、魔女はピンク色の奇妙な森を去ろうとしていた。あわてたのはクーネルだ。 (ちょっとぉー! 去るのはいいけど、わたしにかけたこの呪い、解いていきなさいよぉ! 動けないし、しゃべれない!)  目だけで魔女に訴えかけれると、さすがは高度な魔力を持つ魔女、すぐに気づいて目線を遠くからよこした。 「ああ、うるさいから、おぬしはしばらくそのままにしておく。三時間くらいしか効果はない、大丈夫だ。おとなしくしておれ」 (そんなことってある!? 姫に対する数々の冒涜! 名誉毀損で処罰を与えるわ!)  心で叫んで懸命に訴えかけるが、声が出ないストレスで血を吐きそうだった。パドューシカは愉快そうに唇をゆがめる。 「とらわれの身になりたかったのじゃろう? 願いが叶ってよかったじゃないか。あーははははは」  こんなにまぬけな『囚われの姫』などいない。ただ動けないだけ。魔女は本当に去ってしまうし、シャーリーはクーネルのことなど完全に無視、ルイを鳥かごから出すために必死だった。 「下がっていてください、僕が叩き斬る!」  ルイが身を縮めて潜めると、シャーリーの剣が一振り深夜の水辺に強く振り下ろされた。 「ライジング・サンッ!!」  ただの剣の振り下ろしだったが、シャーリーはかっこよく叫んだ。 (いや、なによ、いまの……必殺技名? 自分で考えたの?)  とても突っ込みたいが、声が出ないので心でつぶやくだけだ。  一瞬の間を置いて、鳥かごの鉄の棒に亀裂が入る。もともと老朽化していたようで、何度か剣で叩くと崩れ落ちていった。やっと人ひとりが通れるサイズの穴ができると、シャーリーは迷わずに籠の中に飛び込んだ。 「ルイ先生……」  万感の思いがこみあげて、シャーリーの目には夜目にもわかるほどの涙があった。 「シャーリーさん、ありがとうございます。助かりました。魔女につかまってしまうなんて、もう命はないと覚悟していて……」  力なくルイがほほえむ。黒髪を延ばしひとつに結った、低い声のクールガイだ。鳥かごに囚われても絵になる美男である。仕事場では弱気で、クーネルが宿題をしてこなくても叱れずに、困ったように頭を抱えている。数学の話、つまり得意分野の授業中ならばとても楽しそうに延々と喋るが、それ以外の話題になるととたんに口をつぐむ。不器用そうな人だ。  クーネルはただ、離れたところからふたりの様子を観察するしかなかった。ここにはお菓子もない、本もない。ほかの娯楽は存在しないのだ。ルイとシャーリー、ふたりの従者を注意深くただ見守った。 「結果的には無事でよかったものの、魔女に立ち向かうなど、無茶ですよシャーリーさん。もっと自分の命を大事にした方がいい」 「ルイ先生……僕は、その……きみに言いたいことがあったから、ここまで来たんだ。見捨てるなんて絶対にできなかった」  ルイは思いがけない言葉をぶつけられたようで、まっすぐな目をシャーリーに向けた。シャーリーは少年のように、頬を赤らめた。 「正直に言うよ。同じ時期に城に勤めはじめて、同い年の君のことがずっと気になっていて、話してみたいと思っていた。でもなかなか、普段いる場所が違うしチャンスがなくて……」  今まで、ふたりは話したことがなかったのか、とクーネルは驚いた。恋人どころか友人になれるかすらも分からない。それでも命をかけて助けようとここまでやってきたのだ。 「僕は週末に必ず一人で行くカレー屋巡り、年に一度の休暇でカレーの新たなスパイスを求める旅に出ている。で、当然自分でも作る。振る舞う相手はいないから、食べるのも僕一人だけど、それなりに楽しく過ごしてるよ。一人なのは気楽だし好きだ、けれど、もしきみも一緒だったらどんなにいいかといつも考えていた。ルイ先生」 「シャーリーさん。私は……」 「答えなくていいんだ。これまで、ろくに話したこともないのに、こんなこと言ってごめん。きみと違って僕は適当だから、あまり心証はよくなかったかもしれないね。でも、遠くからいつも、きみが好きな数式についてうれしそうに話すところをみていたんだ。見ていて、勝手に、いいなと思っていた」  ルイはその真意を悟ったようで、黙った。黙ってシャーリーをみた。ふたりの騎士の間に、形容しがたい空気が流れる。桃色の木々と、朽ちかけた鳥かごの中で、彼らは見つめあった。  湖には、可視化された美しいマナテルが浮遊している。 (たしかにこっちまったく動けないし存在感はゼロに等しいけど、告白するタイミングって今なのかしら?)  クーネルはどんな顔をしていいかわからなかったので真顔で眺めていた。紙にインクでつづられた文字群、恋愛小説でしか知らなかった恋の物語。現実世界で、それがまさに繰り広げられていた。 「シャーリーさん、まずはここから出ましょう」 「あ、……ああ」  流されたと感じたらしく、シャーリーは金髪の美貌で哀しげに微笑んだ。  聞かなかったことにするから、言わなかったことにして欲しい。そういう意味合いなのだろうか、とクーネルはやきもきした。 (そんなのってない! シャーリーは命がけでここまで助けに来たのに。気持ちがないなら仕方ないのだから、誠心誠意、きちんと伝えて、ルイ!)  ああもう、この呪いさえ解ければ、とクーネルは歯噛みした。シャーリーはそれ以上追求するつもりがないようだった。促されてふたりして鳥かごの外に出る。 「……で、シャーリーさん」 「え?」 「私もこの際だ、正直に言わせてもらう」 「え、いきなり!? いいんだ、まだ少し考えてくれても――ちょっと覚悟がまだっていうかその」 「実は私も、食べ歩きが趣味なんだ。たまの休日は必ず一人でふらりと」 「えっ! ほ、ほんとうに……?」 「ああ。むろん一人でも楽しく過ごしていた。けれど、おまえと同じで、誰かがそばにいればもっとよいかもしれないと最近、考え始めていた。美味しいと、分かち会える誰かが」 「そうだったんだ。僕と同じだな。じゃ、じゃあ、どこか店の中で、すれ違っていたかもしれないな!」 「いや、おそらくそれはない」 「どうして。僕はカレー以外の飯屋も好きで行くぞ? 基本的に食べることが大好きで……」  いつもより幼い、まんまるの青い瞳で見返されたルイは、少し照れたように視線を逸らした。 「私はからいものは不得手で……、好きなのは、『スイーツ』だからだ」
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