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第1話
左手に書物三冊、右手で長い杖をつきながら王立図書館長リカルドは『館長室』にやってきた。
午前の業務を滞りなく勤めて、昼休憩に入ったのだ。遠視用の眼鏡をかけて本を開く。机に置きっ放しのティーポットからカップに茶を注いでいると、予告なく扉が開いた。
よく知る、彼がこの世界でもっともよく知る金色あたまがいそいそと入ってきた。髪は秋の稲穂、瞳は夏の空。頬は春の薔薇。そんな言葉が次々と浮かぶほどには美しい容姿の、でもまだ小さな女の子。
袖のふくらんだ水色のドレスは、腰でベルトかわりに唐紅の帯で結んで留めてある。縦ロールに巻かれた金髪にも同じ素材の大ぶりのリボン。茶のエナメル靴で清楚に歩いてくる。大人ぶった澄ました表情で顎をそらし、開口一番。
「お兄さま、折り入って相談が――」
「却下」
「まだなにも言ってないわよ!」
「どうせ下らん寝言を繰り出すに決まっている。聞くだけ脳の処理の無駄遣いだ」
「こんなに可憐でかわいい妹が、まじめに悩みを打ち明けようとしているのに」
「かわいい妹は自分でかわいいとか言わない」
貴重な昼休み休憩だ。一分一秒でも阻害されるのは気にくわない。まだお子さまで暇な妹と違って、こちらは図書館長という重要な勤めがあるのだ。そんな大人の心情を理解しない妹クーネルは、桃色の頬をふくらませて、天井を見上げる。
「お兄さまのところ、最近若いガルディアン(番人)がふたり入ったじゃない? ほら遠い異国からきた、なんかむずかしくて不思議な名前の……」
「百戦錬磨と、明鏡止水のことか」
新人の二人の名を告げる。彼らは北の地方からやってきた、戦闘に特化した訓練を受けたプロの軍人だ。多少平和ボケしているトワール人とまったく違い、一分の隙もなく、鋭い殺気に満ちている。
「そうそれ! 図書館をよく利用している身からみても、あの二人、落ち着いていてなかなか見所があって気に入ってよ! ねぇねぇ、わたしの側近にしてよ」
命よりも大事な書物を収集し保管する図書館を護るために、厳選に厳選を重ねて人選した優秀なガルディアンだ。おかげで毎日、仕事がはかどっている。渡すわけがない。
「おまえな……。やはりくだらないじゃないか。だいたいそれのどこが悩みなんだ?」
眉間に指を当てて、リカルドは読み差しの本を閉じ、座ったままで、右隣の本棚に立てかけた。この部屋は、図書館長の彼のために改造されて、安全な設計がなされている。小柄で足腰が弱く、杖をつきながら生活するリカルドの手の届く位置に家具が配置され、床には障害物や段差がない。
「わたしの悩み、それは毎日平和すぎてなにも事件が起こらないということよ。いい? わたしはトワール国の美しいお姫様で、世界中の少女が憧れるカリスマ的な存在。もちろん周囲の従者はハンサムで若くてかっこいい殿方ばかり。なにも起こらないのが不思議でしょうがないわ! 今すぐにもう明日にでも、わたしに惚れたハンサム従者たちがわたしを取り合って決闘を始めるはず。なのに誰一人、だ・れ・ひ・と・りとして言い寄ってこない、こんなのって絶対おかしいわ!」
机にすり寄って訴えてくる妹から、視線を横にスライドさせた。壁一面の本棚には、この国の歴史の書物がびっしりと並ぶ。
統率、平穏、反逆、戦い、強奪、復習、抑圧、支配、そしてまた反逆。
繰り返されてきた血の歴史を思い返す。
むろんリカルドとてまだ年若く、戦争の時代を直接知るわけではない。けれどほんの八十年ほど前までは、凶悪な魔物が身近に存在した。町が襲われて火の海になることもあったという。
そう、いまの平和がいつなんどき崩れ去って町が一面の戦禍になるかは、誰にも予想できないのだ。
「…………平和を倦むとは、なにごとだ。おまえが生まれるだいぶ前から我が国は、他国との戦争もなく内紛もテロもない、凶悪なモンスターに理不尽におそわれることもない。それでいいじゃないか」
「わたしのささやかな夢なの。十数人の、それぞれに魅力的でタイプの異なるハンサムな男性たちが、なんやかやでみんなわたしのことを好きになって、わたしをめぐって喧嘩したり鞘当てしたり友情を結んだりと、笑いあり涙ありの青春を送ることが。今のわたしなら、舞台も登場人物も、完璧に準備が整っているのに!」
「本の読み過ぎだな」
「それだけはお兄さまに言われたくないわ。本の虫、いいえ、本の寄生虫のくせに」
兄妹で本好きといっても、ジャンルは大きく異なる。リカルドは歴史、文化、社会、科学の分野を好む。読みたい本は膨大で、時間がいくらあっても足りなかった。そのため、リカルドは規則正しい生活を己に律している。
夜九時就寝、早朝四時に起き、出勤までの三時間を読書の時間に充てる。風邪など引かないように、食事にも気を遣う。すべては本を読むために。
それに比べて、クーネルは乱暴なまでに自由気ままだ。毎日好きなだけ夜更かしをして、夜食をつまみながら小説をむさぼり読み、昼の勉強の時間に居眠りをしている。教師とは常に一対一なのに、相当度胸のあるやつだった。
リカルドから見れば、あまりにも無計画で非効率的、怠惰な生活態度である。
彼は苛立たしい気持ちで妹をにらんだ。こんなことで自由時間をつぶされてはたまらない。
「だいたい十数人の人間に同時に告白されるなど、ただのホラーだ。ゾンビみたいなものだ。集団でおかしな薬でも飲まされているのではないか。そんな状況を望むなどおまえは頭がどうかしている」
「ちょっとお! 人の夢なのにひどい言い様ね!」
「おまえにはすでに、量・質とも充分な従者をつけている。人選に問題はない」
「ああ~、嘆かわしいわ、町の女の子たちのあいだではやりの恋愛小説は全部、騎士と姫の身分違いの運命の恋! もしくは教師と生徒の逃避行の愛! 今や、『年の差』と『身分違い』が世界の恋のスタンダードよ」
「そんなもんまわりに迷惑だろ」
「はあああ。最近の殿方はシャイにもほどがあるわね。勇気がなくて告白もできないなんて。こんなんじゃ国の将来が思いやられる」
「従者を変えたところでなにも変わらないし起こらない。いいかげん無駄なあがきはやめろ。まじめに勉強しろ。そもそも俺の貴重な昼休みを奪うな出て行け……って……」
振り返ると、すでに妹の姿はなく、中途半端に半開きにされた扉がそのままにされていた。
リカルドは額をおさえた。
「ああ、バカだ……バカがドレスを着て歩いている。我が妹ながら、なぜこんなにバカなのだお前は……」
*
午後の科目は数学で、クーネルがもっとも苦手とするものだった。数学にはロマンスが、ときめきがない。数学者に言わせれば、数学は航海に勝るロマンだそうだが、クーネルにとってはただの無機質な石ころみたいなものだった。
教師のルイが黒板に白いチョークで数式を並べていくのをぼんやりみていると、とたんに睡魔におそわれる。一日のうち、いちばん眠くなる魔の時間。
「くぅ…………」
「もう、起きてください、クーネル姫。姫」
「むうう……うーん?」
肩を揺さぶられ、顔を上げる。ぼんやりしたまなこでみると、そこには困ったように微笑む数学教師のルイがいた。
見るからに内気そうな、線の細い灰色の瞳。黒髪を中途半端に伸ばし、毛先を肩につけていた。清潔な白いシャツに綿のズボン、革靴。スタイルもファッションセンスも悪くない。ただ、毎日コーディネートを考えるのが面倒らしく、いつも同じデザインで微妙に色違いの服を着ている。気に入れば複数買っているのだろう。
こうして間近でよく観察すると、数学教師のルイもなかなかのハンサムな男だった。少し気が弱いところはあるが、頭脳は明晰。年齢は三十代後半なので、年齢差は危険な香りがする。いいかんじだ。
しかも彼はただの数学教師ではない。トワール国の城内で働く、統計占い師の肩書も持つ。
占星術とは異なり、膨大な数値のデータを分析して災害や不測の事態、未来の国を予測するのだ。数学が得意な彼らしい立派な仕事で、クーネルの教師は「ついで」の業務だった。
「もう少しで今日のお勉強は終わりですから、もうひとふんばりですよ。がんばりましょうね」
ルイは幼子に接するようににこにこと告げる。授業中に堂々と居眠りしても全然怒らないこの人は、クーネルを六歳児くらいに思っているのかもしれない。
「ねえルイ先生、先生は好きな人って、いないの?」
「なっ」
ルイは繊細なほそい指からチョークが落ち、慌てて拾おうとかがみ込んで、思い切り机の角に生え際をぶつけた。
「なぜ急にそのようなことを」
あからさまに大きな反応が返ってきて、クーネルは眠気が吹き飛ぶ。その手は震えていて、チョークが再び床に落ちた。
クーネルは反射的にそれをつまみ上げて、ルイの鼻先を指し示した。
「……気になるわ。そのリアクション……。いるのね?」
ルイは肩を萎縮させて、目の下をはっきりと紅く染める。ますますじっと見つめ返すと、首をぶんぶん振った。
「ああああもう、からかうのはやめてください! いませんよ! 僕の話はいいじゃないですか!」
こんなに動揺するということは、もしかして、密かにクーネルを慕っているのではないか? そうだ違いない! 他に解釈のしようがない!
ごほんと下手な咳払いをして、ルイは授業を再開させた。
クーネルはそれ以上言及するのを避けたものの、心の中では満足を覚えた。教科書に目を落としながら、すでに心は妄想の嵐が吹き荒れていた――
授業を終えて図書館に行くと、仕事終わりのルイが開架の本棚のそばでひっそりとたたずんでいる。読んでいる本は、気象の書物だ。思わず後ろからちょっかいを出したくなる背中だった。いらずら心に火がついた。
『だーれだ♪』
『わあっ……姫!』
期待以上に驚いてのけぞるルイに、クーネルは両手を後ろで組みながら一歩ずつ近づいた。
『ふふふ、もうわかっちゃった、あなたの気持ち』
ルイは様になっていない咳払いをし、本を閉じると観念したように目を伏せた。
『クーネル姫、身分違いにもほどがあるので、この想いは墓場まで持っていこうと決めていました。なのに、貴女がいけないんですよ……。その綺麗な蒼い瞳でまっすぐに僕を見て……僕の心に断りもなく入ってくるから……』
『ルイ先生はかわいいわね』
『うう、僕のほうがずっと年上なのに』
『まるで少年のようだわ、先生』
『先生はやめてください、姫』
『じゃあ、姫と呼ぶのもやめて?』
『それは……!』
思わせぶりな流し目を送ると、ルイは両手で顔の表面を覆い隠してしまった。
「うふふふふふ……ふふふ…」
「あのう……どうしました?」
「ルイ先生ったら~もう~~」
「はぁ? 僕ですか?」
「はっ!」
目を開けたまま眠っていたようだ。気がつくと授業終了の時間を数分過ぎていた。
黒板に並ぶ数式がハートマークに見える。今日も勉強はまったく実にならなかった。仕方ないですねえと微笑みながら、ルイは許容してくれた。今日の分の範囲は宿題として出され、来週ミニテストが行われることになった。
クーネルを取り合う恋の物語に、ルイ先生を登場させよう。まだ役者が足りないので、次々と参入させていくのだ!
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