画家の最後

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画家の最後

 東京八王子の駅から東にちょっとした界隈がある。そこは坂と行き止まりのある入り組んだ道がアリの巣のように複雑にできている。これらの道はおかしな角度で折れ曲がるので、道を辿って歩いているうちに、一度や二度は元の道に戻ってしまう。そこに住まいを構えている人でないと容易には目的の場所に辿りつけない構造になっている。これはある種の人には素晴らしいことだ、と気がついた絵描きがいた。仕事道具や酒場の取り立てなどが来ても、一円の取り立てもしないうちに、来た道を戻っていくことにならないか!  このようにして、くたびれた古めかしい八王子の隅に、駆け出しの芸術家が群れをなすことになった。年季によって亀裂の入った木の枠で覆われた西向きの窓、苔によって元の色がわからなくなった屋根瓦、歩くごとに高音を立てる床。とにかく家賃が安ければ良いのだ。茶を飲むための湯飲みや、調理器具だとか、そんなものは足を伸ばしてカッパ橋まで行き調達をすれば、それでもう芸術家の「隠れ家」ができあがった。  壁の表面が不均一に白色で塗られたつ三階建の二階に、タケルとリョウがスタジオを構えていた。どちらも夢を追いかけて東京に出てきた。東京で一花咲かせようと意気揚々と地元から出てきたのだった。水道橋の格安定食屋で知り合い、芸術、音楽、洋服のスタイルなどがピタリと一致していたので、住まいを共にすることになった。  それが六月のことだった。花は咲きこり緑は萌えていた心地の良い季節で、スタジオでの作業ははかどった。パッとしない仕事しかなかったが、日銭を稼ぐことはできた。しかし、贅沢をする余裕のない若者二人は乾麺を茹でて、二人ですすり、エタノールを水道水で薄めて晩酌をした。もちろんおつまみなどはない。喉がカッと熱くようなウイスキーや、一日の疲れを癒してくれるビールは存在しなかった。空っぽの財布を逆さにし、上下に振ったのは一度や二度ではなかった。それでも、二人の暮らしは楽しく充実しており、絵のレベルも上がった。そんな調子で夏が終わり、冬になりかけていた十一月に世間を揺るがす怪しい招かれざる客がきた。冷たく、人の目には見えない、人々を怯えさる、世間では新型の肺炎であると言われていた。こいつが芸術家の隠れ家をうろついて、氷のような手で一人、また一人と、別の世界へ送っていった。都心ではこの通り魔が威風堂々と闊歩しバタバタと人を倒していったが、このあたりの苔むした隠れ家では、さすがに進行は弱くなったようだ。  新型肺炎という未知の脅威は古くから伝わる格式高い精神のようなものは持ち合わせていなかった。きれいな空気と穏やかな平原の中で育ってきたリョウでは、手を赤く染めて息を荒くする殺人鬼には格好の餌食だった。リョウはどこからか病気をもらってきてしまい、数日のうちに、ほとんど寝たきりの病人になった。リョウはギシギシと軋むベッドの上でから、結露で錆び付いた窓の金具を超えて隣の家の壁を見るだけになってしまった。  ある日、この頃引っ張りだこの医者が、豊かな白が混じった眉毛を動かして、タケルを廊下に呼んだ。  「こりゃ、助かる見込みと言えば・・・十に一つだ」と言いながら、体温計をまじまじと見つめていた。「本人が生きようと意志を持てば、見込みもあるだろうが、どうも土の中に入りたがるやつばかり多くて、薬なんぞ、何の役にも立たんよ。あなたの友達は、もう病が治らないと決め付けている。何でもいいから心残りになることは無いのか?」  「ああ、そう言えば、いつかはロンドンに行って、テムズ川とビッグベンを描きたいと言ってたな」  「絵のことか? つまらんね。もっと気になってならないような、心から離れないものは無いのか?例えば女とか」  「女か。無いね、俺らみたいな三流の画家に振り向くような女はろくな奴らじゃない」  「そうか、それは困ったな。医者として職務はまっとうするつもりだが、患者が参列する人の勘定を気にするようになったら、医者の効能は五割引だと思ってくれ。だが、この冬にどんな映画が上映するかや、どんな上着を着て街を歩こうかを気になるように仕向ければ、十に一つが、五に一つになるだろう」  この医者が帰ってから、タケルは仕事場へ行って下を向いたまま薄めたエタノールを一気に飲み込んだ。一杯では足りず、ついでは飲みついでは飲んだ。窓から見える灰色のどんよりした雲と代わり映えのしない家々にむかっ腹が立ち、歯を食いしばった。酔いが回ると気分が多少晴れた、キャンバスを抱えビートルズの “Doctor Robert”を歌いながらリョウの部屋に乗り込んだ。  リョウは窓側を向いてピクリとも動く気配がなかった。寝ているのだと思ったタケルは、歌うのをやめた。  キャンバスの位置を調整し、雑誌の挿絵になる絵を描き出した。冬の陰気な雰囲気を吹き飛ばすような、真夏の景色を描いてくれと編集部から依頼された。主役になる砂浜と打ち寄せる波を描いていたら、聞こえるか聞こえないかの細い声がした。  リョウが目を見開いている。窓の外を見て何やら数えているのだった。だんだん数字が減っていく。  「十三」とつぶやいてから、いくらか時間を置いて、「十二」になり、さら「十一、十、九」が連続した。  タケルは窓の外を観察した。何を数えているのだろう。ただつまらない庭があるだけだ。大股で三歩というところはすぐに隣の建物だ。その建物も自分たちのものと同じく表面がデコボコになっており、そこに根の腐りかけた茶色いツタが、かなりの高さまではりめぐっていた。冬の冷気が入り始めた冷たい風が、ツタについている葉をどんどん落としていく。小魚の骨のように細い茎だけが、壁にへばりついていた。  「おい、どうした?」タケルはいった。  「七」手で仰いだら消えるような小さな声が返った。「どんどん落ちていくだろ。俺がこのベッドでくたばり始めた頃は100枚くらいあったんだぜ。全部数えていたら頭が痛くなったよ。今はうんと楽だ。ほら、また落ちたぜ。これであと六枚だ。」  「六枚?どういうことだ?」  「葉っぱさ。俺と同じようにくたばりかけているツタに残っているだろ?最後の一枚が落ちたら、俺も終わりだ。命の火を灯すロウもなくなる。立ち上がれなくなった時からわかってた。医者から聞いただろ?」  「バカをいえ!そんなこと聞いてないさ」ムリに笑ったタケルの顔から、表情がしばらく消えなかった。「あんな葉っぱと、お前の病気は関係ないだろ。夏に葉が茂っていた時はえらく感動して面白がっていたじゃないか。悲観的なやつだな。医者が言うには、お前の病気は十中八九治るってさ。山手線の車窓からビジネスマンを見るくらいの確率と同じくらいだそうだ。まぁ、とりあえずスープでも飲んでくれれば、俺も心配なく仕事に集中できるんだけどよ。今度の仕事がうまくいけば、ペシミストな病人の景気付けをするためにビールでも買って、俺は牛のステーキでもほうばるよ」  「ビールなんて買うまでもないよ」リョウは窓の外を絶えず見ていた。  「また一枚落ちた。スープもなにも要らないよ。あと五枚だ。暗くなる前に、葉が見えるうちに最後の一枚まで言ってくれれば、それを見た後、悔いなく世をされるのによ。最後の一枚が落ちるのを見届けたい。もうこの苦痛に耐えるのにも飽きた。すべて放り投げて、あの葉っぱと同じように風に乗って落ちて行きたいんだ」  「お前、いい加減にしろよ」タケルは枕元に勢いよく座った。「しばらく目をつむってろ。窓の外なんか見るな。葉っぱがお前の生死を決めるわけじゃない。お前自身が決めるんだよ。いいか?俺は明日までの締め切りがあるからもう行く。カーテンを閉じておくからな。病人なんだから寝ろ」  「わかったよ。お前はくたばりぞこないにもそんな態度をとるんだな。疲れたから少し寝ることにするよ」リョウは少しだけ、口角を上げて目を細めた。  「下からナカムラのじいさんを連れてくる。後ろ姿だけならいいモデルになるからな。リョウ、ゆっくり眠るんだぞ」  ナカムラは上の階に住む油絵が専門の画家だ。年齢はわからないが、外見や彼の話から60歳は超えており、無作法にのびた白い髭が口周りを覆っており、長年のアルコールの影響で顔色は異常に黄色い。画家として大成したとは言えない男だった。これから世に残る傑作を作るとか、俺の作品は死後に高く評価されると言い続けて、いつも口だけになっている。絵筆をふるって四〇年以上立っているが芸術の神様は彼の方を見向きもしなかった。たまに宣伝や雑誌の挿絵に手を染める程度で、大したものは描いていない。絵のモデルが良い小遣い稼ぎだ。隠れ家界隈に住んでいる若い画家は金がないので、モデルを雇う代わりにナカムラに声をかけるのだ。酒好きの彼はウイスキーの小瓶を内ポケットに入れてクイッと飲んでは、あいも変わらず傑作を物にする話をやめない。普段は気難しくて頑固な人柄だが、体調が悪いリョウには子猫の保護をしているかのように優しく気を使っていた。  タケルが薄暗い木造の階段を上がっていくと、ナカムラは酒の匂いを発散させ近寄ってきた。部屋の片隅には白紙のキャンバスが置いてあり、偉大になるであろう作品の一筆目を受け止めようと、もう二十年以上待たされている。タケルはリョウがおかしなことを考えているのだと言った。実際、リョウは日毎に痩せており、元々細かったのにも関わらず今では強風が吹いたら飛んでいきそうなほど軽くなっていた。体重の減少と同時にこの世に留まる気持ちも細っていき、ふとした拍子に消えていってしまいそうだった。  ナカムラはアルコールで黄色くなった目を赤くして「くだらねえ!」と憤慨した。そういうナヨナヨしたことを考える奴の気が知れないという。  「葉っぱが落ちたら死ぬだと? そんなバカな話がこの世にあってたまるか!聞いたこともない。今日はモデルになる話なんてやめて、リョウのそばについてやろう。あいつはそばにいてくれる奴が必要なんだよ。このままじゃ本当にあの野郎、イカれちまうよ」  「そりゃ、ナカムラのじいさん、リョウは病気なんだから仕方ないだろ。ずっと高温の熱にうなされているんだ、おかなしことも考えるようになるさ。息をするのもやっとってほど苦しそうなんだぜ?」  「まぁ、わからなくもねえかもな。でもこのままじゃほっとけねえよ。下の階で若い奴が俺を差し置いて死ぬなんて許されねえさ。そのうち俺が傑作を描いたらよ、みんなでこんなとこ出ていこうじゃないか。それが一番だ!」  二人でリョウの部屋に入ると、リョウは眠っていた。高温に苦しめられている彼の顔は紫と赤が混じったような色をしており、その顔色にナカムラは目を離せなかった。部屋のカーテンは固く閉められていた。隣のタケルの部屋に移動し、壁のツタを見た。そして、一言も発さずに顔を見合わせた。一瞬の沈黙だったが、永遠のようにも感じられた。先ほどから降っている冷たい雨が降り止まない。雪が混じってみぞれになっていた。ナカムラはツルが巻いている壁を見つめながら、ポケットのウイスキーを取り出しいつもより多く黄金色の液体を胃に流し込んだ。  翌朝、看病の合間の内に眠ってしまったタケルが目を覚ましリョウの部屋に行くと、すでに彼は起きており光が微かに漏れているカーテンの方を曇った眼で見つめていた。  「開けてくれ。見たいんだ」彼のかすれた声には有無を言わさぬものがあった。  選択の余地はないかとタケルは考え、リョウの言うことを聞いてやった。  雪の混じった重い雨が叩きつけ風が吹き荒れていた長い夜が明けて、今なお壁に一枚の葉が残っているではないか!ツタに残った最後の一葉である。葉の茎に近いとこは元気な深緑の色をし、ノコギリの歯のような形をした周りは黄ばんで枯れてきていた。中心はちょうど黄色と深緑が混ざっている色をしていた。その葉は向こうの建物の二階と三階の間、高さにしてちょうど七メートルほどのとこに懸命にしがみついてた。  「あれが最後か」リョウはつぶやいた。「俺は夜中にすべての葉が落ちると思ってたよ。風と雨が壁を叩きつけていたからな。でも、今日中には落ちちまうだろうな。その時が俺の最後さ」  「リョウ、お前何言ってやがる!」タケルは疲労によりやつれた顔をリョウの枕元に寄せた。「お前が死んだら、俺はどうすればいいんだ!?お前の墓に毎月線香をあげにいくなんてごめんだぞ。それに一緒にヨーロッパに行くって約束したじゃないか。その約束はどうするんだ!」  いくら待ってもリョウの返事はなかった。誰も真には語ることはできない遠くの世界へ旅立とうとしている魂ほど、寂しいものはこの世にない。リョウはただ閉じられたカーテンを見つめ、身動き一つとらなかった。  そのようにしても時間は刻々と過ぎていった。夕暮れになっても、葉はツタにしがみ付いて残っていた。夜になると、再び風は強く吹き荒れ、雪を含んだ重たい雨は容赦無く窓をたたきつけ、屋根瓦に音を立てて流れていた。  次の朝、夜が明けるとリョウはすごんでカーテンを開けるように言い放った。  一枚の葉は落ちずに、まだ残っていた。強い意志を持っているかのように昨日と同じ場所に留まっていた。  リョウはその葉っぱを長いこと、まぶたを閉じずに見つめていた。その姿を見ていたタケルは心配して声をかけた。  「俺はとんだバカもんだったよ」リョウは声を微かに振るわせて言った。「へそを曲げていた。心がねじ曲がっていた。俺のバカさ加減を思い知らせる為にあの葉は残ってくれたんだな。体調が悪だけで死にたいなんて考えるのはアホのすることだ。おかゆでも作ってくれないか?あと、あれば卵もつけてくれ。タケル、今まで世話かけたな。ありがとう。今日の夜は一緒にビールを飲もうじゃないか」  それからしばらく経ってリョウが言った。  「俺はやっぱりロンドンのテムズ川とビッグベンをどうしても見たい。それを見るまでは死ねない」  午後に医者が来て、リョウの診察をした。帰りがけに適当な理由をつけてタケルは部屋を出た。  「容態は良くなっているが、助かる見込みは五分ってとこだな。だけど、しっかり看病してやればなんとかなるだろう。峠は超えたよ。私はもう一人見なければいけない患者がいる。上の階のナカムラという老人だ。彼も画家だったな。彼もまた新型の肺炎だ。年齢もあって、かなり衰弱している。急に症状が出たらしい。すぐに病院に搬送する予定だ。病院でいくらか楽にできるだろう」  次の日に医者が来て言った。「もう大丈夫だ。よく耐えた。あとは栄養と睡眠を充分に取れば問題ない」  午後にリョウの部屋に行った。リョウは元気を取り戻し、表情は生き生きとしていた。タブレットで何か絵を描いているようだった。  「なあ、リョウ、聞いたか?ナカムラのじいさん肺炎で昨日亡くなったそうだ。2日とも持たなかった。新型の肺炎は進行がとても早いらしい。じいさんの症状が発見される前に大家さんがナカムラを見つけたらしいんだ。上着やズボン、靴とか着ているものがびしょ濡れで、氷のように冷え切っていたらしい。そこには、明かりがついたままのライトと、物置から引っ張り出してきた梯子があって、半乾きの絵の具が散らばっていたそうだ。パレットには緑と黄色が混ざっていたらしい。窓の外を見てくれ。最後の葉っぱが壁に堂々と残っているだろ。おかしいと思わないか?あれだけ強い風と重い雨にさらされて、散らなかったんだぜ。わかっただろ?あれがナカムラがいつも言っていた傑作だよ。最後の葉が落ちた夜に、ついに書き上げたんだな。そして野郎を一人救ったんだよ」
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