プロローグ

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第2話 プロローグ~翠~  翠は珍しそうに部屋の中を見回した。  祐樹は散らかしていると言ったが、荷物の少ない部屋の中は殺風景だ。それでも久しぶりに人の家に入った翠にとっては珍しいものばかりだった。  翠が旅の僧に捕らえられてしまったのはもうかれこれ千年以上は昔のことになる。僧は自分から進んで鬼になったのではないという翠を、哀れに思ったのかもしれない。一枚の美しい(うちき)に念を込めて鬼に与え、翠という名と袿によって彼女を縛った。  僧と交わした約定はたったの二つ。  ひとつ、人はもう喰わない。  ひとつ、人の家に入るには許可を貰わねばならない。  人を襲い殺すことすら禁止していない約定だったが、単純だからこそ千年の長きにわたって翠を縛り続けた。  人喰い鬼を恐れた人々は、家に閉じこもりさえすれば逃げ切れることに安堵する。その代わりに山に近い場所に地蔵を祭り、長年にわたって供え物を欠かさなかった。  僧の言を忠実に守り、翠は山に現れる禍を退治して暮らしている。その働きは人目に付くことはなく、やがて翠は人々から忘れられた。翠もまた、人里には近寄らないようになっていた。  だが時代は変わり、そんな山にも道路が通り、人が入る。  ここ最近では人と出会い言葉を交わすことで、翠は今の時代に適応しようとしている。今どきの言葉を覚え、新しい道具や食べ物を覚えた。  そんなときに出会ったのが祐樹だ。 「えっと、まずはお茶でも」  そう言って差し出されたものは、翠にとってはもう見慣れた物だ。 「うむ。すまぬな」 「ペットボトルのお茶で悪いけど、客用の茶碗とかなくて。ああ、もしかして蓋が開けられない?」  受け取ったまま何気なく手元のお茶を眺めていたら、勘違いされた。  どうやら翠の見た目は、ペットボトルの蓋を開けるのも困るほどか弱いらしい。  祐樹は蓋を開けてから、もう一度翠に手渡した。 「傷は、こうして明るいところで見たら浅いね。血がいっぱい出てたからびっくりした。これならすぐに治りそうだけど、洗ったほうがいいと思うんだ」 「うむ。放っておいてもよい」 「あの……良かったらお風呂に入ってこない? 襲わないよ。約束したんだから今日は襲わない。嫌なら顔を洗うだけでもいいけど、泊るところもないんだよね?」 「風呂……」 「着替えは無いんだけれど。ああ、俺のTシャツで良ければ貸すけど。覗いたりは、絶対しないから」  一人であたふたして、いろいろ言っては手でパタパタと顔を扇ぐ祐樹。決して男前ではないが真面目そうな顔。年の頃は二十を少し過ぎたくらいだろうか。  どうやら本当に下心なく、翠を助けたいと思っているようだ。恥ずかしそうに風呂を勧めては、顔を真っ赤にして横を向く。女と付き合ったことなどないのだろう。  翠にはそんな祐樹の様子が面白く、新鮮に思えた。 「では、お言葉に甘えて湯を借りよう。着替えはいらぬ。浄化の術を使える故」 「そ、そうなの? まあいいや。じゃあお風呂はこっちね」  狭いアパートの風呂場などすぐにわかるが、それすらも翠にとっては珍しい。あれこれと世話を焼いてくれる祐樹のおかげで、風呂の使い方も分かった。  祐樹が居間に戻ると、翠は帯をほどき袿を脱いだ。  袿は僧の術によって千年ものあいだ形を保っている。翠を縛るものではあるが、脱げないわけではない。 「この袿がある間は、衣を纏い人として振舞うと良い」  一糸まとわぬ姿で鬼として捕らえられた翠に、人の規範を与える言葉だった。  さっと湯を浴びた後、己の身体と衣に浄化の術を使う。  これは鬼と呼ばれた者たちの使える技だ。理屈などは知らない。翠にはただ、使えるだけだ。  きれいになった肌着を再び纏い、袿を羽織ると今度は帯を締めずに手に持って、裾を引きずりながら居間へと戻った。 「そそそそれじゃあ、翠さんはそっちで寝てね。俺はここで寝るから」  祐樹は毛布を投げて渡すと、ベッドを指さす。  そしてそのまま自分も布団をかぶって、部屋の隅で小さく丸まって寝てしまった。 「他にやりようもあろうに」  その翠の楽しそうな声が、はたして祐樹に聞こえたかどうかはわからない。  何事もなく夜は明ける。  大学へと出かける祐樹に合わせて、翠もまた衣を整えて外に出た。  その際に、祐樹は自分の古い靴を出してきた。 「これは翠さんにあげる。サイズは合わないけど、裸足よりはいいと思う」 「うむ。感謝する」 「あの……翠さん。けがはもう大丈夫なようだけど、また困ったら俺を訪ねてきてね」 「うむ。祐樹には世話になった。朝食までいただき、ありがたいこと。ああ、そうじゃ、これを祐樹に」  翠は帯から白い石の飾りを取って手渡した。長年護符として身に着けていた根付だ。 「この根付は祐樹に預けておこう。靴の代わりにな」 「え、良いのかな」  でも嬉しいから貰っちゃおう。そう言って祐樹は根付をポケットへ入れた。  それから二人は手を振って、分かれ道を祐樹は町へ、翠は山へと向かう。シャラン。翠の歩に合わせて鈴の音が響く。  その時ふと禍の気配を感じて、翠は慌てて振り返った。  反対の方へ向かって歩いている祐樹の足元に、外法の陣が怪しい光を放って広がる。それは今にも祐樹を飲み込もうとしていた。  シャン。  翠が走る。  普段であれば間に合ったのかもしれないが、慣れないスニーカーに最初の一歩が遅れた。翠が着く前に陣は完成する。飲み込まれる祐樹の後を追うように翠もまたその陣の中へと飛び込んでいった。
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